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古本夜話1116 国民図書『校註日本文学大系』と中山泰昌

 小川菊松の『出版興亡五十年』を援用しながら、吉川弘文館の外交販売にふれてきたが、そうした出版社・取次・書店という「正常ルート」以外の流通販売は古典類の出版にあって、かなり多く採用されていたと見るべきなのかもしれない。しかもそれを当の小川と誠文堂新光社が譲受出版していることを考えると、古典類の出版の流通反愛を含めた多様性にも注視すべきであろう。

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 そうした格好の例を、大正十四年に刊行され始めた『校註日本文学大系』に見てみる。これもまた『世界名著大事典』第六巻の「全集・双書目録」に「中世末までの古典作品の集成。校註は厳密ではなく、頭注も少ないが、解題には見るべきものがある。収載量の多いことでは随一である」との説明に加え、全二十五巻の明細も示されている。

f:id:OdaMitsuo:20210113102520j:plain(『校註日本文学大系』)

 この『校註日本文学大系』は本探索1107の中塚栄次郎の国民図書株式会社が円本時代に企てたものだった。それは新聞広告による内容見本送付という予約出版と通信、外交販売を兼ねていたようで、小川は『出版興亡五十年』で次のように書いている。彼は国民図書刊行会と誤記しているが、『世界名著大事典』も国民図書会社と同様なので、ママとする。

世界名著大事典〈第1巻〉アーカン (1960年) 

 国民図書刊行会(ママ)では、広告に依る請求者ばかりでなく、有力な名簿を手に入れて見本をこれに直送する。即ち同社の「校註日本文学大系」には三十万部(中略)の内容見本を刷つて発送したのであつた。当時市内特別郵便物は僅に六厘であつたから、同社では、大阪、神戸、京都、名古屋の大都市には、その市内だけのものを一括して客車で送り、社員を出張させて、その地の郵便局にこれを出さしめた。こういう方法が、頻々と派手に行われたので、逓信省は一種の脱税行為と見、市内特別は、その発行所在地の局以外は、扱わぬという制限を設けるに至った。

 この内容見本送付のからわかるように、中塚の国民図書株式会社の場合は流通販売に関して一筋縄ではいかない。それは公共料金や税制にも熟知し、新聞、鉄道、郵便などのインフラも全面的に利用し、その上で予約出版、通信、外交販売が組み合わされ、稼働していく。もちろん出版社・取次・書店という「正常ルート」は注文だけの仲間口座、地方取次に対しては入銀制による低正味が導入され、代理店的外交販売が促進されたと考えられる。後に中塚が政治家となっていくことを表象するように、全面的なオルガナイザーとしての出版者だったと見なせよう。

 それでは編集のほうはどうなっていたのだろうか。手元にあるのは一冊だけだが、その奥付には編輯兼発行者として国民図書株式会社、その代表者として中塚の名前が挙がっている。幸いにして、これは函入、四六判天金上製、九六〇ページの第一巻で、『古事記』や『日本書紀』などの収録である。上田万年、関根正直、三上参次による三つの「序」は、昭和を迎えての『校註日本文学大系』の位置づけ、その第四期にまで及ぶ計画、具体的な編輯者への言及もあるので、それらをたどってみる。

 上田はまず「国文学各種の一大結集を作らんとする、日本文学大系の計画は、出版界に於ける壮挙」と宣言する。それは「忌憚なく言へば、在来のこの種の叢書には遺憾とする点が少なくなかつた」し、一般的に売れるものだけを集めたり、量だけを誇ったり、編纂の不備は明らかで、無責任な複刻、校訂校正の杜撰さを露呈するばかりであった。それらに対し、『校註日本文学大系』は先行の叢書類の欠点を子細に点検し、「永く後代に残す本として」「理想的なもの」になったと述べている。

 そして第一期が奈良朝より室町末期での文学、第二期が徳川時代の文芸、第三期は和歌、第四期は俳諧を収録刊行する予定で、それらを系統的組織的に排列し、最も信頼できる資料により、校訂や註釈に力を注ぎ、詳細の解題を付する計画である。それもあってか、まだ第一期事業すら完了していないにもかかわらず、早くも「大系本」という呼称が広く認められ、「此の上なき名誉」だとの言も見えている。それはともかく、後の、また戦後になっても使われる「大系」なるシリーズ名はこの『校註日本文学大系』が始まりだったかもしれない。

 さらに上田はよほどうれしかったのか、この時代にしてはアカデミズム側からはめずらしい企画者と編輯者と出版者にオマージュを捧げている。それで企画者と編輯者の名前が判明したので、それを引いておく。

 此の大系本刊行の計画は、中山泰昌君によつて立てられ、国民図書株式会社の中塚栄次郎君が、財界の不安甚しかつた震災直後にあつて、非常の決心を以てこれが発行を引受けられたのである。而して組織編纂等の方面には、佐伯常麿君が膺られ、中山君はまた、事業の信仰と各巻の校正とに、終始一貫して力を注がれつゝある。而して両君が、出来うる限り良い本を作らうといふ上の註文は、かなり営業者に失費、犠牲を払はしめるものであるが、中塚君は快くこれに応ぜらるゝ(中略)。

 こうして第四期まで出せれば、「日本文学の一大殿堂が築かれ」るはずであったが、おそらく第四期百巻までを予告していた『校註日本文学大系』は第一期二十五巻だけで、それ以後は続かなかった。

 しかし昭和十三年になって、その復刊といっていい「普及版」を刊行したのは小川の誠文堂新光社で、たまたまこちらもその一冊の第二十三巻『狂言記』を拾っているが、奥付編輯者名は中山、解題者は『近代出版史探索Ⅲ』524の尾上八郎あった。小川の『出版興亡五十年』を確認すると、中山は彼の友人として出てくる。まさに出版人脈は連鎖しているのだ。

近代出版史探索III 


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