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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1107『古事類苑』の流通と販売

 近代の先駆的公共出版にして古典籍刊行の試みともいうべき『古事類苑』のタイトルをずっと挙げてきたけれど、実は端本すらも所持していない。それもあって『古事類苑』を取り上げることはためらっていた。しかし私の利用している公共図書館には「赤松則良文庫」が設けられ、その文庫には明治末期の吉川弘文館、明治書院を発売所とする、四六倍判、洋本全五十一巻が含まれ、手にとって見ている。

 それに加えて、熊田淳美の『三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録の出版文化史』(勉誠出版、平成二十一年)の中に、『古事類苑』の昭和二年の『東京朝日新聞』広告を見出したのである。それは発行所が京都の表現社内古事類苑刊行会、発売所が吉川弘文館、取次が六合館と国際美術社で、この流通販売は本探索1075の『日本随筆大成』第一期、同1077の『言海』とすべてではないが共通している。その広告には予約会員費として一時払い五百二十円、月払い十七円が謳われているが、この昭和初期の『古事類苑』も円本時代の産物と見なしていいだろう。

三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録の出版文化史

 そうしたふたつの事柄もあり、『古事類苑』は入手していないのだが、ここで書いておきたい。その前に熊田の著書や杉村武「文部省出版事業」(『近代日本大出版事業史』所収、出版ニュース社)を参照し、『古事類苑』の簡略なコンセプトと出版経緯、流通販売事情を示しておこう。『古事類苑』の出版企画は明治十二年に文部省大書記官にして明六社の西村茂樹によって提出された。それは日本最大の百科事典を想定したもので、歴史、制度文物の変遷、自然及び社会万般の事物に関して、天・歳時・地・神祇・帝王・官位・政治・法律・文学・礼式など三十部門に分類し、『六国史』を始めとする基本的文献から、各項の起源、内容、変遷に関する資料を原文のまま収録するという建議書だった。これらの分類は必然的に前回の『和漢三才図会』などを折衷している。

 そして西村の企画に一貫して寄り添ったのは国学者の佐藤誠実で、明治二十九年から四十年の全巻終了までの編纂の中心となった。そのプロセスを簡略に示せば、明治二十九年の第一冊の『帝王部』刊行から大正三年『索引』による完結まで、実に企画以来三十五年を要したことになる。それもあって、『古事類苑』全巻の編纂史は第一期の明治十二年から二十三年の文部省編輯局時代、後の二期はいずれも文部省委嘱となっているが、第二期は二十三年から二十八年での皇典講究所(国学院)時代、第三期は二十八年から大正三年での神宮司庁時代に分けられる。またそれらの財政問題は熊田の「『古事類苑』をめぐる政策と経済」(前掲書所収)に詳しい。

 そうした長きにわたる編纂過程で、多くの人々が参画したけれど、先の編修長佐藤誠実は完結を見届けたものの、「本書ノ創業以来、与リテ、大ニ功アリシ前文部大書記官西村茂樹、編修総裁川田剛、編修委員長小中村清矩ノ諸氏、皆既ニ不帰ノ客トナリテ」(「古事類苑編纂来歴」)しまったのである。

 それらはともかく、ここで言及したいのは先述した『古事類苑』の流通と販売に関してである。明治二十九年からの『古事類苑』出版は前年に神宮司庁が編纂を引き受けたことで、必然的に同編纂所が版元の役割も兼ねたと考えられる。そして編纂終了後の四十年に編纂事務所を閉鎖し、同所に古事類苑出版事務所を開いて発行所、三十五年から四十一年までは発売所を吉川弘文館と明治書院が担った。それは「赤松良松文庫」で確認しているけれど、四十二年から大正二年の完結までは東京築地活版製造所が印刷だけでなく、発売所も兼ねたようだ。

 しかしその全容が把握できないのは昭和二年の円本時代の『古事類苑』で、これが「神宮司庁版」とあり、それが初版の復刻を意味しているのは明白だが、前述したように発行所は京都の古事類苑刊行会、それも表現社内に置かれている。『全集叢書総覧新訂版』に昭和二年版『古事類苑』の発行所が表現社とあるのはそのことをさしている。熊田によれば、表現社の代表者は後藤亮一で、彼は京都帝大哲学科出身の僧侶であり、雑誌『表現』を主宰し、後の昭和五年からは立憲民政党所属の代議士を二期務めているという。

全集叢書総覧新訂版

 後藤がどのような経緯で神宮司庁から販売を委託されたのか不明だが、拙著「高楠順次郎の出版事業」(『古本屋散策』所収)で述べておいたように、大正から昭和にかけては仏教書ルネサンス的出版状況にあり、高楠は僧侶ではなかったけれど、西本願寺普通教校の出身で、後藤もそうした出版ムーブメントの影響を受けたのではないだろうか。まさに昭和円本時代の只中で、再版とはいえ、日本で最大の百科事典の出版者となることは後藤の本望であったのかもしれない。おそらく金主もセットで用意されていたはずだ。だが大量生産、大量消費の円本時代における予約会員費十七円は成功するはずもなかったというべきだろう。

古本屋散策

 それを証明するのは昭和六年から刊行され始めた普及版の第三版『古事類苑』で、初版、再版の四六倍判に対し、菊判、巻数は五十巻から六十巻、予約会員は一時払いが三百円、一冊は六円であった。しかも発行所は古事類苑刊行会だが、発売所は東京小石川の内外書籍株式会社で、その代表者の川俣馨一が後藤と並んで発行者とされている。川俣と内外書籍には『近代出版史探索Ⅱ』262で、その後日談も含めてふれているように、外交販売を手がけていたのである。外交販売とは拙稿「中塚栄次郎と国民図書株式会社」(『古本探究Ⅱ』所収)で言及しているように、有力な名簿を手に入れ、内容見本を直送したり、あるいは学校や会社などへのバックマージンつきの組織販売をさす。それに仲間取次を利用する。これは読者からの注文に応じるために、取次に注文口座を設ければ、買切扱いで書店を通じて読者に届くことになる。

近代出版史探索Ⅱ 古本探究2

 だが内外書籍の普及版『古事類苑』の外交販売の試みも、昭和における百科事典としての魅力の欠如や専門性、それに高定価も相乗し、またしても失敗に終わったと推測される。そして内外書籍は行き詰まり、八木書店が『古事類苑』などの在庫を安く引き取り、古本屋へと卸し、質の高い特価本リバリューを伴うリサイクル市場が形成されていくのである。

 なお最後になってしまったが、赤松の娘は森鷗外の最初の妻で、息子の範一は『近代出版史探索Ⅲ』423などの集古会の会員であった。

近代出版史探索Ⅲ

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