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古本夜話1159 ヒユネカア『エゴイスト』と「海外芸術評論叢書」

 聚芳閣は前回の『院本正本日本戯曲名作大系』とほぼ同時期に、「海外芸術評論叢書」を刊行している。ただこの「叢書」は『全集叢書総覧新訂版』や紅野敏郎『大正期の文芸叢書』にも見当らないこともあり、全巻点数や明細が確定されていない。

f:id:OdaMitsuo:20210530115149j:plain:h120 (『院本正本日本戯曲名作大系』)

 私にしても、二十年ほど前にその9に当たるヒユネカア、芥川潤訳『エゴイスト』を入手しているだけだ。しかし幸いにして、その巻末に「海外芸術評論叢書」の広告が掲載され、それが田中王堂、土田杏村による編輯で、装幀は廣川松五郎とあるが、裸本のためにそれは感受できない。そこには次のような編者の言葉が見られる。それを引いてみる。

 我国の文壇に今又文芸評論らしい評論がなく、且つ評論が文壇に影響する力も甚だ微々たるものである事は多くの人達から常に聞く言葉だが、公平に見て其の事実に蔽へないと思ふ。現在我国には、小説や劇の叢書は数多くあるけれども、評論の叢書といふものは一つもない。実際のところ文壇の読書子も、もう大分小説や劇に飽いた。此んな時に少し固い評論書を読んで気分を転換し、視野を拡大してみるのも悪いことではあるまい。―—手軽な翻訳本ならば何処ででも読め、且つ其れを読む事によつて何かのヒントを得さうな気がする。

 編者の田中や土田に関して、ここでは言及せず、別の機会に譲るつもりだが、いわれてみれば、大正時代において、確かに翻訳の「評論の叢書といふものは一つもない」ように思われる。それだけにこの「海外芸術評論叢書」の企画は、当時としてはきわめて先進的にしてユニークな試みだったのではないだろうか。その意気込みは選書にもうかがえるので、9までしか挙げられていないけれど、訳者も会わせて、「叢書」の明細を示してみよう。

1 スピンガーン、遠藤貞吉訳 『創造的批評論』
2 トロツキイ、武藤直治訳 『無産者文化論』
3 モリス、大槻憲二訳 『芸術のための希望と不安』
4 バルビユウス、青野季吉訳 『バルビユウス論抄』
5 カアペンタア、宇佐見文蔵訳 『創造の芸術』
6 ロオリツヒ、竹内逸訳 『美と慧眼の生活』
7 グリーアスン、遠藤貞吉訳 『近代神秘思想』
8 ツウルゲーニエイフ、宮原晃一郎訳 『文学的回想』
9 ヒエネカア、芥川潤訳 『エゴイスト』

f:id:OdaMitsuo:20210608142952j:plain:h120(『創造的批評論』)f:id:OdaMitsuo:20210608143240j:plain:h120(『芸術のための希望と不安』)

 「以下続刊」とあるけれど、このようなラインナップからして、「続刊」は難しかったのではないだろうか。著者だけでなく、訳者たちも半数はここで初めて目にするし、9にしても本邦初訳だし、訳者の芥川もプロフィルは定かではない。ただ7は日夏耿之介訳『近代神秘説』として、すでに新潮社から刊行されていたのである。

ヒユネカアの場合も、辻潤が『浮浪漫語』(下出書店、大正十一年)の中で紹介していただけだったと思われる。『世界文芸大辞典』にしても、ヒユネカアはヒュネカーとして立項され、アメリカの音楽評論家で、パリにおいて音楽理論を学び、ニューヨークの新聞諸誌で音楽批評を受け持ち、フランス文学に明るく、音楽、劇、文学上の多くの著書を刊行とあるが、それらの著書名は挙がっていない。その代わりに『エゴイスト』には代表作とされるリストやショパンの評伝などが引かれ、『エゴイスト』は Egoist : A Book of Superman の部分訳だが、ヒユネカアはアメリカの文芸と音楽に関する第一流の評論家だとされている。だが戦後の『増補改訂新潮世界文芸大辞典』においては立項もなく、それは大正末の「海外芸術評論叢書」の『エゴイスト』だけの翻訳で終わってしまったからではないだろうか。

Egoists: A Book of Superman

 ちなみに『エゴイスト』の内容を記しておけば、スタンダール、ボードレール、フローベール、アナトール・フランス、ユイスマンスの五人を対象とするフランス文学論集である。アメリカ人によるもので、抄訳であったにしても、「叢書」の企画試みと相俟って、きわめて早く翻訳刊行されたフランス文学論集だったと見なすべきだろう。

 私が古書目録で『エゴイスト』を入手したのは、『エマ・ゴールドマン自伝』の翻訳に際し、ジェイムズ・ヒュネカーがエマを取り巻く人々の一人であったことを知り、あらためてヒュネカーも当時のニューヨークにおけるアナキズム運動の近傍にいたことも認識させられたからである。そしてこの翻訳を機会として、『エマ・ゴールドマン自伝』に登場するヒュネカーも含む千人以上の人々を収録した『エマ・ゴールドマン自伝登場人物事典』を編むつもりで、資料収集を重ねていた。それほどにエマとその周辺人物をめぐる謎は深く、それが実現すれば、十九世紀末から一九三〇年代にかけてのアナキズム史、女性史、思想史、精神史を横断する人々が一堂に会するツールとなるはずだった。けれどもゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」の翻訳に没頭せざるをえなくなり、機会を失ってしまったことになる。もはや年齢と仕事の関係からしても、実現は難しく、残念というしかない。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 エマ・ゴールドマン自伝〈下〉

 なお昭和五十年代を迎えてだが、生田耕作の奢灞都館から、ハネカー、萩原貞二郎訳『エゴイストたち』が刊行された。これはボードレール、ユイスマンス、リラダンの三編を収録したものである。

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