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古本夜話1178 宇高伸一訳『ナナ』と三好達治

 前回、大正十一年にゾラの『ナナ』が宇高伸一全訳で、『世界文芸全集』7として刊行され、大ベストセラーとなり、新潮社が新社屋を建設するに至り、それがナナ御殿とよばれたというエピソードを記しておいた。

f:id:OdaMitsuo:20210723104645j:plain:h110(『世界文芸全集』)

 この宇高については『日本近代文学大事典』に立項があるので、それを引いてみる。

 宇高伸一 うだかしんいち 明治一九・六・二五~昭和一八・三・一〇(1886~1943)小説家。新潟県直江津生れ。本名信一、旧姓佐藤。明治四三年早大英文科卒。奇蹟同人として小品や一幕もの『旅立ち』(大二・五)などを書く。呉海軍工廠や広島山陽中学につとめつつ仏文学を収め、ゾラの『ナナ』(大一一・三 新潮社。再刊昭二一 大泉書店)、メリメの『カルメン・コロンバ』(昭五 新潮社。再刊昭和二三 大泉書店)などを訳刊。ほかに小説『黄色液』『情熱の行くところ』などがある。

 やはり『同事典』の『奇蹟』改題を見てみると、確かに宇高信一の名前が見える。そしてこの文芸同人誌が大正二八年に舟木重雄を編集兼発行人として創刊され、植竹書院に発行所が移されたとわかる。とすれば、『近代出版史探索Ⅱ』253でふれているように、同人の広津和郎がモーパッサン『女の一生』や『美貌の友(ベラミー)』を英語から重訳していたこと、前者が植竹書院からの出版だったことは、宇高にとっても大いなる刺激となったと思われる。また同時代に植竹書院は、これも本探索1167の「薔薇叢書」なる翻訳シリーズも刊行していたし、これらの訳者たちも宇高の近傍にいたはずだ。

 どのような経緯と事情で宇高が『ナナ』の訳者になったのかは不明だけれど、大正七年に広津訳『女の一生』が新潮社によって重版の運びとなったこととリンクしているのではないだろうか。それに加えて、中村星湖訳『ボワ゛リイ夫人』が大正十一年に『世界文芸全集』1として刊行されたことも関係しているように思われる。その後、昭和に入ってこの二作は『世界文学全集』20に収録され、宇高訳『ナナ』の同19と並ぶことになる。

f:id:OdaMitsuo:20180911113032j:plain:h120(『世界文芸全集』1)f:id:OdaMitsuo:20210820081617j:plain:h117(『世界文学全集20) f:id:OdaMitsuo:20210725110044j:plain:h120(『世界文学全集』19)

 宇高は『世界文芸全集』の「序」の付記において、『ナナ』が英語からの重訳であること、「N氏の好意」による「原文と対照して最密なる改訂」、『奇蹟』の舟木重雄などへの謝意を表しているけれど、「N氏」とは中村星湖のことではないだろうか。その「改訂」が昭和二年の『世界文学全集』への『ナナ』収録に際しての改訳を促すことになったように推測される。

 宇高の「序」を読めばわかるのだが、彼の「ルーゴン=マッカール叢書」二十巻の原書名を挙げ、『ナナ』が第九巻であるにもかかわらず、その第十七巻に相当すると述べている。それは彼がこの「一冊の完訳すらでなかつた」「最も意味ある大作を我邦に移植し得たことを光栄とする」と記しているのに、「叢書」に通じておらず、『ナナ』の英訳だけを読み、翻訳し、「序」を書いていることを浮かび上がらせている。それに加えて、N氏の原文との「最密なる改訂」によって、英訳がフランス語原文に忠実なものではないことも、広く伝わり始めていたとも考えられる。ナナ御殿を建てたとされるフランス小説の大ベストセラーであったゆえに、様々なルーマーが飛んだと見なすことも可能である。

 そこで『世界文学全集』企画編集者としての佐藤義亮は『ナナ』を収録するにあたって、フランス語からの翻訳を意図した。それに昭和を迎え、時代はそれまでの重訳から原文語訳へと移行しつつあったのである。広津訳の『女の一生』はともかく『世界文学全集』としても豊島与志雄がユーゴー『レ・ミゼラブル』全三巻、山内義雄がデュマ『モンテ・クリスト伯』全二巻を担い、『仏蘭西古典劇集』や『仏蘭西近代戯曲集』や『現代仏蘭西小説集』も、東京帝大仏文科を中心とするメンバーによって翻訳されていたのである。そのメンバーの一人として、三好達治も召喚され、『ナナ』の翻訳に携わることになったと考えられる。

f:id:OdaMitsuo:20180911142905j:plain:h120(『世界文学全集』)

 しかもそれは周知の事実とされていたようで、『日本近代文学大事典』の宇高の立項に、『世界文学全集』の『ナナ』も宇高訳とされているにもかかわらず、その記載がないことはその事実をふまえているからだろう。また三好達治の立項において、「『世界文学全集』第一九巻の『ナナ』の下訳、約一一〇〇枚を市外奥戸村字曲金の農家にこもって完訳』とあるのも、フランス文学翻訳史のよく知られたエピソードとなっていることを伝えていよう。また付け加えておけば、先の立項のメリメの『コロバ・カルメン』の新潮社は間違いで、改造社である。それは『世界大衆文学全集』44としてで、そこには宇高の口絵写真もある。この全集の明細は拙著『古本探究』に収録している。

 そして戦後を迎え、三好訳としての出版も可能となり、昭和二十六年には三笠書房から、「三好達治氏による我国最初の完訳」という帯文付きで刊行されるに至っている。この三笠書房版と新潮社の『世界文学全集』19を見てみると、前者にわずかな訳語の変更はあるにしても、両社はまったく同じといっていい翻訳である。ちなみに第1章におけるナナの裸体での出現の描写においても同様である。そのシーンは宇高訳では少しばかりカットされていたし、おそらく英訳でも同じだったのではないだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20210725112526j:plain:h120(三笠書房版)

 なお『ナナ』(論創社版「ルーゴン=マッカール叢書」)の最新の訳者は私であり、これも三好訳を拳々服膺させてもらったことを付記しておこう。

ナナ (ルーゴン=マッカール叢書)

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