みすず書房の元編集長加藤敬事の『思言敬事』(岩波書店)を読み、教えられることがあったので、それを書いてみたい。
加藤はその「出会った人々のこと」の章において、「翻訳者素描」を試み、最初に大久保和郎にふれている。大久保の名前は『近代出版史探索Ⅵ』1190で、ドーデの『風車小屋だより』『月曜物語』(いずれも旺文社文庫)の訳者として挙げたばかりだが、まずは加藤による翻訳者としての紹介を引いてみよう。
大久保さんは翻訳者としては(中略)、みすず書房からはツヴァイクの『運命の賭』(一九五一年)など、ドイツの小説を訳していた。それが一九六〇年代に入ると、マリアンネ・ウェーバーの『マックス・ウエーバー』(一九六三―六五)、ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』(一九六五年)、『全体主義の起原』(一九七二―七四年)、カール・シュミット『政治的ロマン主義』(一九七〇年)というように、十年くらいの間に次々と、みすず書房の出版の核をなす本、というより二十世紀を代表する本のいくつかを訳してみすず書房から出した。訳されてから半世紀、二十一世紀になってますます広く読まれている奇跡のような書物群である。
私はこれらのみすず書房の大久保のすべての訳書を読み、架蔵しているし、中学時代には彼のフランスミステリの翻訳にも世話になっている。それらはボワロ&ナスジャックの『思い乱れて』『技師は数字を愛しすぎた』『呪い』(いずれも創元推理文庫)である。とりわけ『技師は数字を愛しすぎた』は当時ミステリらしからぬタイトルゆえに記憶に残り、後に確かめたところ、原題は l'ingénieur aimait trop les chiffresで、邦訳は『思い乱れて』(A cœur perdu )と同様に名訳だと思った。
加藤はそのことにふれ、大久保夫人が創元推理文庫の担当編集者だったこと、夫人の東京女子大時代の同級生が『全体主義の起原』の共訳者の大島かほりであり、後のミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波書店)の翻訳者も、その修行の第一歩は大久保のもとで始められたと記している。
しかしそれ以上に驚きだったのは、大久保の母親が八木さわ子だったことだ。彼女は戦前からのドーデの訳者で、『私生児』(新作社、大正十三年、後に『ヂャック』として春陽堂文庫)『プチ・ショーズ』(岩波文庫、昭和八年)を刊行している。加藤は八木と大久保の母子関係の事情を説明していないけれど、大久保がドーデの二冊を旺文社文庫で翻訳したのは、母親が『月曜物語』の訳注本を白水社から出していること、及び「母親への記念のため」ではないかと推測している。それだけでなく、独協出身で慶応大学中退の大久保はほぼ独学で英仏独語を修得していたし、彼をそれらの外国語と翻訳へと誘ったのは八木自身だったのではないだろうか。八木の訳注本は『白水社80年のあゆみ』によれば、大正十五年に「仏蘭西文学訳註叢書」4として刊行されていた。
(『白水社80年のあゆみ』)
昭和五十年に亡くなった大久保と異なり、八木は『日本近代文学大事典』に立項が見出せるので、それを引いてみる。
八木さわ子 やぎさわこ 明治二六・四・六~昭和二一・五・八(1893~1946)仏文学者。東京生れ。大正一〇年アテネ・フランセを卒業したのち、母校で教鞭をとる。主要訳書にあるフォンス=ドーデ『私生児』(大一三・九 新作社)『ヂャック』『プチ・シヨオズ(ちび君)』(昭八・10 岩波文庫)、アナトール=フランスの『襯衣』(昭二・七 日向新しき村出版部)『黒麺麭』、オノレ=ド=バルザックの『谷間の白百合』などがあるほか、注訳本にドーデの『月曜物語』がある。
この立項によって、大久保は大正十二年生まれなので、二十三歳で母と死別したことになる。またこの八木のアテネ・フランセ履歴からすれば、彼女は『近代出版史探索Ⅴ』953、954などのジョゼフ・コットやきだみのる、『近代出版史探索』198の関義の近傍にいたことになるけれど、彼らの側からの証言は見ていない。それでも八木訳のバルザック『谷間の白百合』は入手している。大正九年に新潮社から出され、昭和十五年に春陽堂文庫化されているので、八木こそはこのバルザックの傑作『谷間の白百合』の本邦初の訳者で、戦前は彼女の訳で読まれ続けていたことになる。私が読んだのは戦後の新潮文庫の『谷間の百合』(小西茂也訳)によってであり、小西訳にしても、戦後を待たなければならなかったのだ。
(小西茂也訳)
『谷間の白百合』はこれも『近代出版史探索Ⅵ』1199でふれた新潮社の「翻訳叢書」として、ユゴーの『レ・ミゼラブル』と同じく菊半截判、同じ造本である。したがって記載されていないにしても、「翻訳叢書」シリーズの一冊として出版されたと考えられる。それはともかく「序」の二ページに八木の肉声が聞こえているが、何と驚くことに、ポール・リシャールの「バルザックを解剖的に読まうと云ふのは間違つている、直覚を以て読まなければならない」との言、及びリシャール夫妻の援助によってこの翻訳は成立したと述べているのだ。それは幻視者としてバルザックを読むようにとの助言に他ならなかった。『近代出版史探索Ⅲ』563で既述しておいたように、ポール・リシャールはヘルメス文書に通じたフランス人の神智学者で、大正四年から九年にかけて日本に滞在し、秋田雨雀や大川周明たちとも親密に交際していた。その磁場の中に八木さわ子もいて、『谷間の白百合』の翻訳に従事していたのである。
なお加藤は大久保の五十年の死に立ち会い、その早い死を惜しんでいる。その半世紀後に加藤も『思言敬事』を上梓して亡くなっていることを付記しておく。
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