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古本夜話1298 片山潜と在米日本人社会主義団

 前回、「大庭柯公問題」をめぐるコミンテルンの在米日本人グループと日本グループの構図にふれたが、前者は一九一九年=大正八年に片山潜を中心として結成された在米日本人社会主義団のメンバーを主としていたし、田口運蔵もその一人に他ならなかった。その前史をたどっておくべきだろう。

 片山は明治十七年に渡米し、苦学して社会問題や神学を研究し、エール大学などの学位を得て、二十八年に帰国する。三十一年には安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江たちと社会主義研究会を始め、三十三年に社会主義協会として改組され、教育プロパガンダも展開するようになる。社会主義協会がその前年の一八八九年=明治三十二年に組織された第二インターナショナルに加盟を認められ、一九〇〇年のパリでの第二インター大会で、片山と安部がブリュッセルのビューローのメンバーに加えられる。その第二インターから一九〇四年にアムステルダムで開催される第五回大会への代表派遣招請があったので、社会主義協会、及び幸徳、堺利彦の平民社は片山を代表として派遣することを決定する。そして片山はその大会でロシアの代表のプレハーノフとともに副議長に選ばれ、満場一致で日露戦争反対を決議したことで、一躍世界に名を知られ、国際的な社会主義者としての名声を確立、その後の彼の歩みを決定づけたといえる。

 その後片山は幸徳や堺たちと日本社会党を結成するが、明治四十三年の大逆事件を受けて冬の時代が始まり、彼も予議扇動で千葉監獄に拘禁され、出所したのは大正元年で、生活を立て直すためにアメリカへと渡る。これが最後の渡米であり、最初の渡米は二十五歳、今回は五十四歳で、しかもついに日本へと戻ることはなかったのである。アメリカで片山は『平民』を創刊する一方で、日本やアメリカの社会主義誌に寄稿を続けたが、第一次世界大戦の勃発により、反戦を軸としていた第二インターナショナルは崩壊してしまった。

 しかしアメリカ社会党左派に加わっていたオランダ人のラトガースは、新たなインターナショナルの結成を構想し、アメリカに亡命していた社会主義者たちを集め、国際社会主義運動の中心となっていた。そのラトガースは片山もニューヨークへ呼びよせ、協力を求めたのである。片山はニューヨークに移ると、スペインから亡命してきたトロツキー、ブハーリン、コロンタイにも会い、ロシアでの二月革命の発生を知った。さらに十月革命をも迎え、ラトガースはアメリカを去り、日本経由でモスクワへ向かうことになった。そして新たなるインターナショナルとしてのコミンテルンの創立へと向かい、一九一九年にモスクワで二十一ヵ国三十五党派代議員五十二人の出席を得て、創立大会が開かれ、翌年の第二回大会で加入条件二十一ヵ条が採択され、各国党はコミンテルン支部として位置づけられた。二一年第三回大会には田口運蔵が代議員として参加し、二二年の第四回大会では片山潜が執行委員に選ばれることになる。

 片山の日本とアメリカにおける軌跡に伴う、このような第二インターナショナルからコミンテルンの結成に至る過程において、田口を始めとするアメリカグループ=在米日本人社会主義団が大きな役割を果たしていくようになる。

 在米日本人社会主義団は一九一八年に片山を囲む田口、渡辺春男、間庭末吉による研究会が始まりで、これに河本弘夫、丘部杳、石垣栄太郎、猪俣津南雄、鈴木茂三郎、高橋亀吉たちが加わり、ボルシェヴィキ派とも呼ばれるようになったとされる。その近傍にいたのは本探索1290などの前田河広一郎であった。在米日本人社会主義団はコミンテルンとの動向ともリンクし、それらの情報を日本の堺利彦や山川均にも送っていたが、第三回コミンテルン大会からの日本代表派遣招請に対し、田口を送り出し、日本の情勢に関する報告書を提出する。

 第三回コミンテルン大会の決定により、イルクーツクで第一回極東勤労者会議が開催されることになり、在米日本人社会主義団からは渡辺、間庭、鈴木、野中誠之、二階堂梅吉が派遣される。一方で二一年、片山もコミンテルン本部の招請により、モスクワに向かい、コミンテルン首脳の盛大な歓迎を受け、コミンテルン代表の一人としてロシア・ソヴィエト大会に出席し、そこで初めてレーニンと会っている。それ以後、片山は日本へもアメリカへも帰ることなく、コミンテルン執行委員会幹部としてロシアにとどまり、昭和八年にクレムリン病院で七十四歳の生涯を閉じている。

 これまで記してきたことは荻野正博『弔詩なき終焉』に触発され、片山と在米日本人社会主義団、コミンテルンをめぐる、あくまでラフスケッチにすぎない。片山は死後に『自伝』(改造社)、『わが回想』(徳間書店)が出され、前者は『近代出版史探索』118などの室伏高信、『同Ⅳ』631の勝野金政の慫慂やアシストによるもので、片山の時代とジャーナリズムにおけるポジションがうかがわれるし、また戦後には『片山潜著作集』(全三巻、河出書房新社、昭和三十四年)も刊行されている。またいくつもの評伝や多くの証言も見ているけれど、ハイマン・カプリンが『アジアの革命家 片山潜』(辻野功他訳、合同出版、昭和四十八年)で指摘しているように、「誤りと欠陥に満ちている」。しかもそれは在米日本人社会主義団やコミンテルンの記録にも及んでいると推測されるし、各人によっての証言の相違や矛盾も頻出し、真相は宙吊りにされてしまう。それに加えて、コミュニズム運動の匿名性と秘密性、ダブルスパイの問題も相乗し、歴史の闇に埋れてしまった事実も多いと考えられる。

 弔詩なき終焉―インターナショナリスト田口運蔵 (1983年)    (『片山潜著作集』)

 拙稿もそれらをふまえての記述であることを了承されたい。


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