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古本夜話1316 『文求堂唐本目録』と中国語教科書出版

 魯迅とエロシェンコの関係もあって、藤井省三の『東京外語支那語部』(朝日選書、平成四年)も読み、文求堂が東京外語グループによる『現代中華国語文読本』『支那現代短篇小説集』『魯迅創作選集』を刊行し、教科書革新運動と魯迅の紹介を担ったことを教えられた。

東京外語支那語部―交流と侵略のはざまで (朝日選書) (『魯迅創作選集』)

 実は手元に大正六年に田中慶太郎を編輯兼発行者とする『文求堂唐本目録坿海王村游記』という新書版よりもひと回り大きい和本仕立ての一冊がある。これにはまず巻頭に陳考威撰、田中慶抄「海王村游記」の白文三〇ページが置かれ、その後に一五七ページに及ぶ「文求堂唐本目録」が続いている。これは「経部」「史部」「子部」「県部」「叢書」に分類された四六三種を掲載している膨大な「唐本書目」で、そうした方面に素養がないこともあって、未開の森を目前にして佇んでいる旅行者のような気にもさせられる。

(『文求堂唐本目録』)

 田中と文求堂については反町茂雄の『一古書肆の思い出』(平凡社)、『蒐書家・業界・業界人』(八木書店)などでふれられていたし、拙稿「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)と同じく、輸入と輸出、日本の新刊と唐本の古書のちがいはあっても、中国と深く親炙した書店だと見なしていた。それに『出版人物事典』にも、次のように立項されていたからだ。

一古書肆の思い出 (1) (修行時代) 書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書) 出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [田中慶太郎 たなか・けいたろう]一八八〇~一九五一(明治一三~昭和二六)文求堂取締役。京都生れ。東京外語学校(現・東京外国語大)支那語科卒。安政年間、京都で創業の御所御用達の書店文求堂をつぎ、美術書出版を行う。一九〇一年(明治三四)東京本郷に移り、中国書専門店として、中国書の輸入を通じて新しい発展の途を歩んだ。太平洋戦争中、出版報国団副団長をつとめ、戦後企業整備で大阪屋号書店と合併、龍文堂書店を創立したが、戦後、文求堂として再開。戦後、日中文化交流の再開を目前にして没した。日本古書組合理事長をつとめた。

 だがあらためて藤井の著書を読み、日本における魯迅の受容史が東京外語支那語グループと文求堂による教科書革新運動と連関していたことを知った。日本の中国語教育界は魯迅を始めとする中国近代文学に注視し、それらを教材とする多くの教科書が編纂されていった。私たち後世代が教科書で魯迅の「故郷」に出会ったように、昭和初期の魯迅の読者たちも、中国語教科書によっていたことになり、それはまた中国における魯迅の文学的ポジション、同じく教科書に採用されていたことも反映されていたのであろう。

 それに先に挙げた、いずれも昭和四年の『現代中華国語文読本』『支那現代短篇小説集』、同七年の『魯迅創作選集』には魯迅の「故郷」だけでなく、「凧」「兎と猫」「宮芝居」「孔乙己」「薬」「阿Q正伝」も含まれ、それらは一九二三年=大正十一年の彼の第一創作集『吶喊』に収録されていたのである。この三冊は中国語教科書ゆえか、古本屋でも見かけたことがない。編纂者の神谷衛年、宮城健太郎、田中慶太郎はいずれも東京外語の卒業生であり、東京外語グループの動向と文求堂の関係はダイレクトに魯迅とリンクしていたと考えられる。しかし藤井によれば、田中を編集兼発行者とする『魯迅創作選集』は四刷で重版を繰返し、魯迅は印税も受け取っている。

1939年 魯迅創作選集 日本刊 中国語 筆名 周作人 漢文 革命家 詩人 小説 散文 支那 阿Q正傳 孔乙己 薬 故郷 狂人日記 版画 印譜 挿絵 絵本  呐喊(鲁迅短篇小说集)

 『文求堂唐本目録坿海王村游記』の刊行が大正六年であることは既述したが、田中はその後の関東大震災を受けて、輸入書籍の重点を漢籍古書から上海発行の新刊書へと転換させることで、営業的にも成功したという。それは本探索1308で示した中国出版業界の成長や上海印書館の隆盛とパラレルだったし、竹内好や武田泰淳などの中国文学者たちの出現とも重なっていたのだろう。それに昭和に入っての満州事変、支那事変は中国関係の書籍や語学書の出版を促進したにちがいない。

 昭和を迎えてからの『文求堂唐本目録』は未見なので、大正六年版と比較できず残念だが、おそらく日本の中国に対する大正から昭和への関係と状況の変化は、そうした『目録』にも反映されていったはずだ。それに大東亜戦争下における生活社などの中国物の翻訳出版は、文求堂も絡んでいたのではないかと思われてならない。

 またこれも藤井に教えられたことだが、ロバート・ファン・フーリックが文求堂の常連だったという。フーリックは昭和十年以降、駐日オランダ公使館に勤め、語学の達人とされ、ディ判事を主人公とする探偵小説『中国鉄釘殺人事件』(松平いを子訳)、『中国黄金殺人事件』(大室幹雄訳、いずれも三省堂)などに加えて、『古代中国の性生活』(松平いを子訳訳、せりか書房)を刊行している。いずれも中国を舞台としていることから考えれば、フーリックが文求堂で買い求めた唐本類がそれらの資料や執筆のきっかけになったと想像できるし、そのように考えることは楽しい。中学時代に武田泰淳の新聞連載小説『十三妹』を読んでいたことを思い出す。

  古代中国の性生活―先史から明代まで  

 『文求堂唐本目録』の中にも、それらに関連したものが混じっているはずだが、唐本に関する素養が欠けているので、その探索はできず、本当に残念である。


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