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古本夜話1366 森鷗外「ながし」

 大下藤次郎の『水彩画之栞』に序文ともいうべき「題言」をよせた森鷗外は、大下が明治二十三年、二十一歳の時に書いた手記「ぬれきぬ」(「濡衣」)によって、大正二年に「ながし」という小説を書いている。このことは前々回の『みづゑ』の土方定一「藤次郎と森鷗外、原田直次郎」でも言及されている。

 大下は父巳之吉の唯一の息子だが、父が次々と妻をとりかえたことから、実母は家を去り、大下は十歳の頃から継母げんによって養育された。彼の境遇は家業が栄え、経済的には裕福であったが、決して幸福ではなかった。彼の手記「ぬれきぬ」はその継母おげんのもとでの「家の奴隷」のような生活、辛苦の生活の中で起きたひそかな事件の記録であった。継母は大下を何かにつけて憎み、出路のように酷使し、何ごとにも疑い深く、大のやきもち焼きと説明されている。そうした中で大下が二ヵ月ぶりに風呂に入り、女中に江中を流してもらったことから起きた継母との激しい感情の波紋を描いたものだとされる。残念ながら『みづゑ』に「ぬれきぬ」は収録されていない。

 そこで鷗外の「ながし」(『鷗外選集』第三巻所収、岩波書店)をあらためて読んでみた。それは「八月三十日の事である。午後はまだなかなか暑い」と始まり、次のように続いていく。

 藤次郎が自分の預かつてゐる三頭の馬に飼(かひ)を付けて、寝藁を入れて寝かして置いて、厩から店へ帰つた時は、顔や手足が汗と埃とによごれて、体が棉のやうになり、精神がぼうつとしてゐた。

 このイントロダクションはどれほど大下の「ぬれきぬ」が参照されているか詳らかにしないが、「ながし」の物語にとってはとても効果的な始まりとなっている。しかしそれには若干の補足説明が必要であろう。これは二十一歳の藤次郎が家業に携わっていることを伝え、それは本郷真砂町の広大な敷地と五百坪の建物からなる旅人宿、下宿、陸軍馬匹用達に加えて、貸家の差配なども兼ねていたのである。

 だが藤次郎は父の巳之吉が四十五歳になって初めてできた男の子だったので、現在は六十五歳の老人であり、その一方で四人目の妻のおげんは三十五歳にすぎなかった。傍から見れば藤次郎は「若旦那」の身分であったが、父の歳と継母の性格からていのよい男衆のように働かされ、陸軍の荒馬の世話もさせられていたのである。それが冒頭のシーンに象徴的に描かれていた。

 この後、店と建物の構図が帳場、土間、台所、自分の部屋を挙げて説明され、帳場の背後の台所の三枚敷の畳のところにおげんが常にいて、「そこで店と台所とを見張つてゐる」と述べられている。湯殿は帳場から対角線で結びつけられる場所にあり、それらはおげんが藤次郎も含め、湯殿も「見張つてゐる」ことを意味していよう。彼は湯舟から上がり、体を洗い始めたが、手拭で背中をうまく洗えないでい

 彼女は他の女中よりも上品で、着物も小綺麗にしていた。そして湯殿をのぞき、「流しませうか。(中略)それに分かりやしませんわ」といった。藤次郎は「此女との中を、なんの理由もなく継母に彼此云はれてゐる」こともあって、断わろうかと思っているうちに、彼女がすばやく側にきたので、手拭を渡してしまった。彼は彼女と「或る秘密を共有する」「一種の甘み」を味わい、それは「意地悪く自分ともとの間を見張つてゐる継母に反抗する快さ」を感じていたのである。ここに鷗外が「ながし」というタイトルを付した理由が浮かび上がる。

 その後、継母の気に入りの女中が、藤次郎の背中を流したもとのことを告げ口し、もとがひどく叱られ、泣いていることを聞かされる。それから藤次郎が九歳の頃、実母が家出し、十一歳でおげんが継母になったが、美人であるけれど、素性の知れないおげんは冷淡でかわいがってくれず、市舞踏した経緯が語られていく。もととの「ぬれきぬ」は藤次郎、父、継母とのやりとりにまた発展していくわけだが、もとの泣く姿はずっと続き、藤次郎も慰めることもできず、その後も一家は同じようなことを繰り返していくばかりだった。

 鷗外は「ながし」を次のように結んでいる。

 藤次郎は後に西洋画で一家をなした人である。此出来事のあつた明治二十三年の翌年から画の師匠を取つて、五六年のうちに世間に知られるやうになつたのである。巳之吉は此出来事があつてから三年目に亡くなつた。それから又三年立つて、おげんは自分の不身持に余儀なくせられて、藤次郎の家から身を引いた。藤次郎は画をかく外に文章も作つた。その「濡衣(ぬれきぬ)」と題した感想文に此話の筋が書いてある。

 藤次郎は明治四十四年に四十二歳で亡くなり、鷗外はその死を追悼し、大正二年に『太陽』に「ながし」を発表したのである。


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