出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1383 青木書店、深田久彌編『峠』、有紀書房『峠』

 前回の「日本新八景」における山岳、渓谷、瀑布、河川、湖沼、平原、海岸の選定が、美しい景観への再認識と景勝地への旅行を促進させたことにふれておいた。そしてそれは出版界にとっても同様で、これも前回の「湖沼」だけでなく、多くの旅行ガイドも兼ねた類書も企画出版されたのではないだろうか。

 それに関連して、かつて浜松の典昭堂で深田久彌編『峠』を購入したことを思い出した。昭和十四年初版で、私の手元にあるのは十六年の普及版の四六判上製の一冊だ。版元は発行者を青木良保とする淀橋区諏訪町の青木書店で、昭和二十二年に青木春男によって創業された戦後の青木書店とは異なる出版社である。だが『日本出版百年史年表』には戦前のほうの青木書店は見当たらない。

  

 この『峠』は深田編とあるように、峠に関するエッセイ、紀行文、文学作品などのアンソロジーで、筆者は延べにして五十人に及んでいることになり、五一七ページに写真一三ページというボリュームである。そこには柳田国男の「峠に関する二三の考察」が見え、これは本探索1329の『秋風帖』(梓書房)が出典で、柳田は自分の空想だが、山岳会の向こうを張って峠会を組織したいと述べ、その「峠の趣味」と題するところで、次のように語っている。

 秋風帖 (1932年) (『秋風帖』)

 峠越えの無い旅行は、正に餡のない饅頭である。昇りは苦しいと云つても、曲り角から先の路の付け方を、想像するだけでも楽しみがある。峠の茶屋は両方の平野の文明が、半は争ひ半は調和している所である。殊に気分の移り方が面白い。実に下りとなれば何のことは無い、成長して行く快い夢である。頂上は風が強く笹がちで鳥屋の跡などがある。少し下れば枯木澤山の原始林、それから植えた林、桑畑と麦畑、辻堂と二三の人家、鶏と子供、木の橋、小さな畑、水車、商人の荷車、寺藪、小学校のある村と耕地と町。

 まだ続いていくのだが、長くなってしまうので引用はここで断念するしかない。ただこれだけでも柳田民俗学における峠の位置づけをうかがうことができるだろう。この柳田の「峠に関する二三の考察」以外にも言及したいものが多いし、『峠』は昭和戦前における峠に関する最大にして上質なアンソロジーを形成していよう。

 深田の「編集後記」によれば、昭和十三年に刊行した『高原』が好評だったことから、『峠』も出版の運びとなったとされる。やはりその深田編『高原』は巻末に一ページ広告が掲載され、『峠』と同じアンソロジーとわかる。その隣にはこれも同じ深田編『富士山』も見え、『高原』『峠』『富士山』が「日本新八景」に見合う出版企画だと了承される。

    (『高原』)  

 だが深田の言からすると、青木良保は『高原』出版後の秋に応召され、戦地に向かったとされるので、実際に『峠』と『富士山』を手がけたのは別の編集者だったと考えられる。その編集者は前回ふれた有紀書房の『湖』、及びこれも拙稿「晩酌のお伴の本」(『古本屋散策』所収)で取り上げた『湖』を含むシリーズを担当していた江上博通ではないだろうか。このシリーズは私以外には誰も言及しないであろうから、それらの「風景の旅」シリーズを挙げてみる。番号は便宜的に振っている。

1  串田孫一編 『峠』
2  井上靖編 『川』
3  田宮虎彦 『岬』
4  串田孫一編 『高原』
5  川端康成編 『湖』
6  宮本恒一編 『秘境』
7  井上靖編 『半島』
8  宮本常一編 『島』


     

 これらは原弘装幀の函入升形本で、同じフォーマットの「歴史の旅」シリーズとして和歌森太郎編『城下町』、亀井勝一郎編『古都』など、また毎日新聞社編『日本の鉄道』、朝日新聞社編『旅』も昭和三十六、七年に出されているので、合わせれば二十冊以上になるだろう。ガイドブックというよりも、写真も多く収録したシックなテーマ別エッセイ集の趣が強い。

旅〈第3〉 (1960年)

 有紀書房は昭和三十年に高橋巳寿衛によって社会科学書などをメインにして始まったとされるけれど、このような写真を含んだテーマ別アンソロジー集も出していた時代もあったのだ。それは『峠』と『高原』のタイトルが重なっているように、内容はすべて同じではないけれど、戦前の青木書店を範としたと考えていいだろうし、それゆえに編集者の江上が青木書店出身ではないかと思ったのである。だが昭和四十年代に入ると有紀書房は実用書出版社の印象が強くなり、これらの出版を知ったのは今世紀に入ってからのことだった。

 また有紀書房の装幀造本が原弘であることにふれたが、先述の青木書店の三冊はすべて谷口喜作装となっている。谷口は『日本近代文学大事典』に立項され、家業の菓子舖うさぎやを継ぎ、河東碧梧桐門下として、装幀なども手がけたとある。ここには言及されていないが、翻訳家の平井呈一はその弟で、岡松和夫は谷口の娘と結婚し、後に平井をモデルとする『断弦』(文藝春秋)を書くことになる。

断弦


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