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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1389 叢文閣「マルクス主義芸術理論叢書」、啓隆閣、マーツア『二〇世紀芸術論』

 本探索1386の秋田雨雀『若きソウエート・ロシヤ』の版元である叢文閣に関しては『近代出版史探索Ⅱ』204、206、207、208などで言及してきたが、出版目録は出されていないこともあって、その全貌は明らかではない。有島武郎との関係はよく知られ、彼の個人誌『泉』や『有島武郎全集』の出版は先の拙稿で既述しているけれど、それ以後の左翼出版物の実態は定かではない。

 

 その一端は『近代日本社会運動史人物大事典』の叢文閣の足助素一の立項にもふれられ、昭和初期の左翼出版文化の時代を白揚社、共生閣、鉄塔書院、希望閣、マルクス書房、南蛮書房などとともに担ったとされる。これらの出版社についても、『近代出版史探索Ⅱ』206などで取り上げてきたが、どの出版社も多くの発禁処分を受けていることもあって、古本屋でも出会うことが少ない。

近代日本社会運動史人物大事典

 それは叢文閣も同様で、例えば雨雀の著書の巻末広告に掲載された「マルクス主義芸術理論叢書」は一冊も見ていないけれど、そのラインナップを挙げてみる。

1 プレハーノフ 外村史郎訳 『芸術論』
2    〃   蔵原惟人訳 『階級社会の芸術』
3 メーリング 川口浩訳 『世界文学と無産階級』
4 マーツア 蔵原惟人訳 『現代欧州の芸術』
5 ハウゼンシュタイン 川口浩訳 『造形芸術社会学』
6 プレハーノフ 外村史郎訳 『文学論』

 (『芸術論』)

 これらの他に国際文化研究所編『マルクス主義者の見たトルストイ』、レーニン、川内忠彦訳『ヘーゲル「論理の科学」大綱』が並び、叢文閣の左翼出版物のカラーがうかがわれる。これらの一冊も入手していないにもかかわらず、「同叢書」を挙げたのは、本探索としてはイレギュラーだが、ひとつの理由がある。

 それは数年前にあるインタビューで、フリー編集者の野中文江と同席し、彼女が『書評紙と共に歩んだ50年』(「出版人に聞く」9)の井出彰と早大露文科の同窓で、啓隆閣という出版社を始まりとして編集の道へ入ったと知らされたからだ。迂闊なことに私はその出版社名を知らなかったので、その後も気になっていたのだが、しばらくして古本屋で、啓隆閣から刊行されたマーツア『二〇世紀芸術論』(伊吹二郎、笠井忠、西牟田久雄訳、昭和四十五年)を見出したのである。ただこのマーツアも初めて目にする人名で、いくつかの世界文学や西洋人名辞典に当たってみたが掲載されておらず、例によって戦前の『世界文芸大辞典』に至り、ようやくその立項を発見した。かなり長いので要約してみる。

書評紙と共に歩んだ五〇年 (出版人に聞く)  

 マーツアはソヴェート・ロシアのマルクス主義芸術学者で、一八九三年にオーストリア・ハンガリに生まれ、ギムナジウムを卒え、演劇関係の論文、著書を発表し、国立劇場の舞台監督を務めていた。だがハンガリ・ソヴェート崩壊後、二二年ロシアに亡命し、モスクヴァ文学出版管理局外事課で働き、その後造形芸術の分野で活躍し、現在コムアカデミア文学・芸術部造形芸術科長、『文芸百科辞典』編集委員としてスヴェート芸術学会に重きをなすとある。

 これを『二〇世紀芸術論』の「訳者あとがき」の著者紹介と照合すると、『世界文芸大辞典』(昭和十二年)の立項が、そこに出ている『文芸百科事典』(一九三四年)に基づくものだとわかる。叢文閣の4の『現代欧州の芸術』の原書は一九二六年、続いて出された『欧州文学とプロレタリアート』『欧州における爛熟資本主義時代の芸術』『理論芸術学概論』は、『世界文芸大辞典』によれば、いずれも邦訳されているという。それは戦前の日本において、マーツアがそれなりに重きをなしていたことを伝えていよう。この『二〇世紀芸術論』は一九六九年のマーツアの新著で、戦後も彼が健在であったことを示していよう。

 最後になってしまったが、この啓隆閣も社名だけでなく、叢文閣と相通じるところがあって、はさまれた「図書目録」を見ると、四十冊ほどが掲載されている。その中に、「マルクス・レーニン主義学習双書」全八巻、「マルクス・レーニン主義美学の基礎」全三冊なども見えている。しかも前者の著者には本探索1284の永田広志がいて、『弁証法的唯物論の学習』『史的唯物論の学習』を担い、後者の監修は蔵原惟人であるので、戦前からの左翼出版人脈は昭和四十年代までは連綿と続いていたことを物語っている。

(「マルクス・レーニン主義美学の基礎」)

 千代田区富士見に位置する啓隆閣の志知啓史も早大露文科出身のようで、ヤマハのPR誌の仕事をベースにして、啓隆閣を立ち上げたとされる。しかし『二〇世紀芸術論』はタイトルも記載されていない機械函入で、しかもB6判上製の本体も背にタイトル表記があるだけの無味乾燥な造本装丁といっていい。売れなかったことがわかるような気がする。それ以後の出版は見ていないので、昭和四十年代前半に消滅したと思われる。

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