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古本夜話1439 佐藤垢石、竹内順三郎『渓流の釣り』

 アテネ書房の復刻には見えていなかったので、前回は佐藤垢石、竹内順三郎共著『渓流の釣り』を取り上げなかった。だが同書は箱入菊半裁判上製三八五ページの一冊で、昭和十年に麹町区丸ノ内の啓成社から刊行され、発行兼印刷者はその代表者の布津純一となっている。また奥付裏には「月刊釣魚界の最高機関雑誌」として『水之趣味』の一ページ広告が掲載され、昭和時代の『釣の趣味』と見なしていいように思われる。それに水之趣味社と啓成社は住所が同一であり、同じだと推測される。

  (『釣の趣味』アテネ書房復刻)

 『渓流の釣り』は口絵写真八ページから始まり、竹内の「はしがき」へと続いている。それによれば、佐藤と渓流魚の話をしているうちに、佐藤が餌釣り、竹内が毛鉤釣りを書こうということになって、次に会ったときにはお互いに書き終わっていた。そこで「折柄渓魚釣りの好季、同好の士にとつていくばくかの参考になれば」と考え、ここに上梓の運びになったと。なお写真は竹内が自らのカメラに収めたもので、装幀は釣人画家太田黙州によっているという。山吹色の布地装に渓流と岩と木々を描き、確かに「釣人画家」らしき味わいを感じさせてくれる。

 その内容はまさしく佐藤の「餌釣り」と竹内の「毛鉤釣り」で構成され、それに二人の「紀行と随筆」が付け加えられ、「渓流の釣り」の快楽が伝わる仕掛けになっている。ここでは「紀行と随筆」から、佐藤の「新秋の渓谷」を紹介してみよう。佐藤は井伏鱒二たちと甲州の木谷川に岩魚と山女魚釣りに出かける。その餌は川虫なので、それを川で捕る「井伏君の姿は、白豚がはひ廻つて居るやうに見える。ムクムクとふとつたお尻を宙に立てて、ノミ取まなこである。漫画人に見せたらと思ふ」と、『川釣り』(岩波新書)の井伏も形なしだが、佐藤は岩魚に関しても書いている。


 岩魚は峡谷の女神であらう。薄藍の鱗の底から、オランダ皿に似た淡い紫の色がうき出して光る。体側を飾る水玉のやうな斑点は何と清麗な造化の神の贈りものだらう。五寸から大きいのは、一尺以上になる。味は素敵である。磧に朽ち落ちた枯木を焚いて、ハゼの木に刺し塩にまぶして焼いた趣は、峡谷の釣に親しむ人でなければ味はへないであらう。

 渓流の岩魚の姿の描写は絵画的であり、佐藤が凡庸な釣人でないことを示している。それにその岩魚を佐藤は釣って、井伏たちに食べさせなければならないのである。佐藤とその著書については拙稿「大泉書店の『旅のいざない』『釣百科』」(『古本屋散策』所収)において、松崎明治著、佐藤垢石補『釣百科』と佐藤の『魚の釣り方』にふれている。その際には志村秀太郎『畸人佐藤垢石』(講談社、昭和五十三年)を読んでいたけれど、佐藤のプロフィルは紹介しておかなったので、『日本近代文学大事典』から引いてみる。

釣百科 (1951年)  (『 魚の釣り方』)畸人・佐藤垢石

 佐藤垢石 さとうこうせき 明治二一・六・一八~昭和三一・七・四(1888~1956)随筆家。前橋の生れ。本名亀吉。親類の農佐藤家の養子。前橋中学四年のとき、校長排斥のストライキを指導し、退校処分。東京の郁文館中学に転じ、早大英文科中退。明治四二年、前橋中学の先輩で報知記者(民謡詩人)、平井晩村の紹介で報知入社。四五年の「ホトトギス」新年号に『美音会(びおんかひ)』掲載。各支局を回り、昭和三年、前橋支局長で退職。酒豪で猥談家。釣に熱中。九年、報知つり欄嘱託。名人の域に達し、『鮎の友釣』(昭和九・七 万有社)出版。『中央公論』などに、飄逸な随筆を発表。(中略)墨水書房からベストセラー『たぬき汁』(昭和一六・九)を出版、第一回日本出版文化協会推薦図書。戦中末期、群馬県農業会嘱託。二一年七月、北浦和で月刊「つり人」創刊。(後略)

 この他にも佐藤が前橋中学で萩原朔太郎と同学年、若山牧水とも酒友だったことを付け加えておこう。

 先の志村は戦前にベストセラーだった『たぬき汁』を読み、戦後になって星書房で、後のつり人社で『続たぬき汁』を刊行し、『つり人』創刊にあたって、その編集に携わることになったのである。もちろん主幹は佐藤だったが、『つり人』の好調な売れ行きと相反して経営は困難で、食える給料ではなく、志村は退職してしまう。それは経営者の川石正男も同様だった。彼は後に山海堂の社長になったという。その後佐藤が社長に就任したが、勤まるはずもなく、結局のところ、元国民新聞記者で、『渓流の釣り』共著者が引き受け、経営を立て直したとされる。それらを描いて「猥談家」の本領を発揮するシーンも挿入されているのだが、これには言及しないでおこう。

  (『続たぬき汁』) 


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