前回の志村秀太郎『畸人佐藤垢石』によれば、『つり人』の創刊が契機となって、佐藤の名声は上がり、マスコミの売れっ子になっていったようで、それは戦後の釣りブームの一端を教えてくれる。大正の『釣の趣味』や昭和戦前の『水之趣味』は、あくまで一定の読者のためのリトルマガジンでしかなかったけれど、『つり人』はいち早く戦後的マスマガジンの地位に躍り出たと考えられる。
そのことを象徴するような一冊があり、それは例によって浜松の時代舎で入手した小早川遊竿編『釣りの四季』で、昭和三十一年に誠文堂新光社から刊行されている。同社は釣り雑誌を出していないにもかかわらず、函入B4判、上製二六〇ページ、定価二五〇〇円の当時としては高定価の趣味本を刊行していたのである。もちろん買い上げ条件付き出版だとしても、時代のトレンドを表象していよう。表裏の両見返しには勧進元が市川遊釣会、行司をたなご、真鮒、へら鮒、はぜとする昭和三十五年度十一回本競技会に基づく「昭和三十六年度壱月発表番付」が使用され、小早川がその顧問だとわかる。そして「自序」において、次のように述べている。
大正五年頃の隅田川は実に美しかった。川面を渡る清風のもと、川辺に立てば詩を吟じ、絵筆を取れば江戸情緒豊かな風情の表現も即興、青葉の下に鮒の泳ぐのも一幅の南画そのものであった。
春の一日、小使い一銭でポケットに入り切れないほどの焼きいもを買い、近所でミミズを取って、今の厩橋から安田公園裏までを二時間位で釣り歩くと、二四、五糎位を頭に二十匹位の釣果は楽であった。今考えると、子供ながら天才かなあと思うが、さにあらず、魚がたくさんいたのである。
しかし、こうして何十年もたくさんの魚を釣り楽しませてもらった釣場は、今は遠い過去の夢になってしまった。現今の隅田川は汚水と化し、何の風情も情緒もなく、ふんぷんたる悪臭は、魚ばかりか付近の住人までも転住させるありさまである。隅田川ばかりではない、東京と千葉県境を流れる江戸川もすでに荒れはじめ、悪水のため下流域の魚貝類の死滅は申すまでもなく、河口で育った稚鮎の逆上まで中断されつつある状態である。
こうした隅田川に象徴される状況において、「河川の浄化、釣場の保護、釣魚の増殖放流等大きな運動を推進しなければ、次代の釣場は夢と消えうせてしまう」ので、「増殖の一助として、産卵期は釣らず、その季節々々の魚を釣って」の「秘中の秘」を公開してもらうために、小早川は『釣りの四季』を編んだことになる。
『釣りの四季』の刊行は六十年以上前であり、小早川を含め、寄稿者たちはすべてが鬼籍に入り、釣り人としての名前も忘れ去られていると思われるので、それらの人々の受持ち月と釣魚を挙げておこう。
1月 | タナゴ釣り | 安食梅吉 | ||
2月 | 寒鮒釣り | 一之江鮒夫 | ||
3月 | 巣離れ鮒釣り | 関沢潤一郎 | ||
4月 | ハヤ釣り | 安芸楽竿坊 | ||
  | 乗込み鮒釣り | 高崎武雄 | ||
  | ヤマベ餌釣り | 若井金吾 | ||
5月 | 青キス釣り | 小早川遊竿 | ||
6月 | ヤマベ蚊鈎釣り | 岸田忘筌 | ||
  | 鮎のドブ釣り | 福田紫汀 | ||
  | ヘラ鮒釣り | 叶九隻 | ||
  | 白キス釣り | 八木幸吉 | ||
7月 | 鮎の友釣り | 吉岡愛竿 | ||
8月 | 渓流釣り | 鈴木魚心 | ||
9月 | ハゼ釣り | 小早川遊竿 | ||
  | ヘラ鮒釣り | 米森魚衣 | ||
10月 | ボラ釣り | 小早川遊竿 | ||
11月 | 磯釣り | 敏蔭敬三 | ||
12月 | 落鮒釣り | 関沢潤一郎 |
この中のどれを紹介しようか迷ったのだが、私が馴染み深いのは2月の寒鮒釣りであり、やはり昭和三十年代に寒鮒釣りにでかけたものだった。稲刈りが終わって農閑期になると、近くの池が釣り人でにぎわい始めた。といいっても多くが集っていたわけでなく、夏の間には人がいなかったから余計にそう思われただけだ。
「寒鮒釣り」の一之江には「寒鮒の狙場」として、九つの図を示しているけれど、私の池もそれらのいくつかと共通するものがある。また彼は寒鮒釣りの三枚の写真を示し、そのうちの二枚は佐原向地の篠崎新田蒲割川とされているが、私が釣りにいっていた池も周囲には田の風景が広がり、昭和三十年代には同様の風景が日本のどこにでもあったことを伝えていよう。井伏鱒二ではないけれど、私も不器用な釣り人だったので大物を釣った記憶は残されていない。しかしあのモノクロームの風景が数年しか続かなかったことだけは覚えている。そこに土地改良などの開発の風景が始まりつつあったからだ。私はそれらに関連して、「井伏鱒二『川釣り』と『座頭市物語』」(『古本屋散策』所収)を書いているので、よろしければ参照されたい。
そういえば、『釣りの四季』の出版と併走するように、誠文堂新光社の小川菊松が『出版興亡五十年』を刊行したのは昭和二十八年、自死したのは三十七年であった。
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