出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1455 横浜事件、『日本出版百年史年表』『出版事典』

 前回、『出版人物事典』の小森田一記の立項において、彼が横浜事件で検挙されたことを見ている。この横浜事件はいわば出版業界の大逆事件と称すべきもので、本探索でも取り上げておかなければならない事件であり、ここで書いておきたい。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

 横浜事件は大東亜戦争下における著者と雑誌から始まり、いくつかの出版社と多くの編集者が連鎖し、獄死者たちも生じたフレームアップ事件だったことで、戦後の事典類にも立項されている。だがここでは出版業界の事件として捉えたいので、まず『日本出版百年史年表』を繰ってみる。ただ同書に事項索引はないので、年表から事件の推移を抽出し、クロニクルとして追う必要があり、それを示す。

*昭和17・9・12 情報局、細川嘉六の論文〈世界史の動向と日本〉(改造社《改造》8月・9月号所載)を攻撃。9月15日、同誌は〈共産主義実現の必然性示唆〉の理由で削除処分、筆者は検挙され、〈泊事件〉〈横浜事件〉となって拡大。
*昭和18・5・26 木村亨(中央公論者出版部員)・小野康人(改造社社員)、細川嘉六の〈泊事件〉(のち〈横浜事件〉に発展)に連坐の疑いで検挙される。また7月31日、浅石晴世(中央公論社社員)、共産党に関係ありと検挙される。
*昭和19・1・29 細川嘉六の治安維持法違反(←昭和17・9・12)の連関で、〈好ましからぬ編集者群〉として中央公論社関係5名(小森田一記・畑中繁雄ら)・改造社関係4名(小林英三郎・若槻繁ら)、神奈川県特高警察に一斉検挙される(横浜事件)。
*昭和19・11・27 横浜事件(←1月29日)の一連として日本評論社の美作太郎・松本正雄・彦坂竹男・岩波書店関係の藤川覚、検挙される。
*昭和20・4・10 横浜事件(←前半11月7日)の一連として、日本評論社関係で鈴木三男吉・渡辺潔が検挙される。5月9日、岩波書店関係で小林勇が検挙される。

 この横浜事件クロニクルが記載された『日本出版百年史年表』は昭和三十二年に発足した日本書籍出版協会の十周年事業として四十一年に企画され、三年を要して昭和四十三年に刊行に至っている。編集委員長の布川角左衛門は元岩波書店編集長で、その後出版研究に携わり、『日本出版百年史年表』の編纂などにより菊池寛賞を受賞している。『同年表』に続いて、布川は出版ニュース社創業二十周年企画としての『出版事典』の編集委員長も務め、こちらは昭和四十六年に刊行を見ている。

出版事典 (1971年)

 その際にこの種の事典として異例と思われる横浜事件が立項され、収録に至っている。それは岩波書店当事者として横浜事件に立ち会った布川にしてみれば、『日本出版百年史年表』における記載に対して内心忸怩たるものがあったことに加え、編集委員として当事者に他ならぬ美作太郎が加わったことも大きな要因だったと考えられる。これも長いし、『同年表』の記述と重なってしまう部分もあるけれど、省略を施さずに引いてみる。

 よこはまじけん 横浜事件  太平洋戦争勃発2年目の1942(昭和17)年に総合雑誌編集者を中心とし、新聞人、学者、文化人の一部に対し行なわれた言論・出版の弾圧事件。雑誌《改造》8月号・9月号に掲載された細川嘉六の論文〈世界史の動向と日本〉につき、同年9月、谷萩大本営報道部長がこれを《読売新聞》紙上で敗戦主義的文章と非難し、〈共産主義実現の必然性〉を示唆するものとして同誌を削除処分とするとともに、細川を検挙した。そのころ、世界経済調査会の資料部主任川田寿夫妻がアメリカ共産党スパイとして検挙され、川田の関係者として調べられた平館利雄が持っていた一枚の写真(《改造》《中央公論》などの編集者数名と細川が富山県泊〈とまり〉に旅行した時に撮ったもの)を基にして、神奈川県特高はこの旅行を泊共産党再建会議としてでっち上げ編集者、研究所員などを治安維持法違反のかどで検挙した。その被検挙者は50名前後に上り、出版社としては、中央公論社(小森田一記、畑中繁雄、藤田親昌、青木滋、木村亨、沢赳、浅石晴世、和田喜太郎)、改造社(相川博、小野康人、小林英三郎、水島治男、青山鋮治、若槻繁、大森直道)、日本評論社(美作太郎、松本正雄、彦坂竹男、渡辺潔、鈴木三男吉)、岩波書店(小林勇、藤川覚)のほか、朝日新聞社では酒井寅吉が捕えられ、これに昭和塾、世界経済調査会などの組織関係者を数えることができる。この事件の特徴は、昭和初期に始まった一連の思想弾圧事件の終局として、その検挙と取調べの手法が残忍をきわめ、浅石、和田、高橋、田中ら数名に上る獄死者を出したこと、切迫した国家権力が初めて出版編集者を直接攻撃の目標としたこと、検挙された各グループの間の関連がきわめて乏しく、これを一括してつなぎ合わせるでっち上げの色彩が濃厚であったこと、などである。

 この『出版事典』の立項によって、『日本出版百年史年表』においてはリニアとして断片的だった横浜事件が面として捉えられ、多くの関係者と獄死者の名前も挙げられ、両者を合わせれば、出版業界から見た横浜事件のクロニクルと見取図が簡略に提出されたことになろう。

 あらためてこれらの編集者名を確認すると、岩波書店の小林勇や日本評論社の美作太郎には本探索でもキイパーソンとして登場してもらっている。またダイレクトでないにしても、その他にも多くの出版社社員や編集者が関わっていたと思われる。それらの関係者の著作として、黒田秀俊『横浜事件』(学芸書林)、美作太郎『横浜事件』(日本エディタースクール出版部)、青山憲三『横浜事件』(希林書房)などがあることも付記しておく。

    横浜事件―元『改造』編集者の手記


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら