出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1467 ベンヤミン『モスクワの冬』

 ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』『エマ・ゴールドマン自伝』をめぐる数編を書きながら思い出されたのは、ベンヤミンも一九二〇年代にモスクワを訪れていたことで、その記録が『モスクワの冬』(藤川芳郎訳、晶文社、昭和五十七年)として残されている。ベンヤミンはどこに泊まっていたのだろうか。

  世界をゆるがした十日間〈上〉 (岩波文庫)   エマ・ゴールドマン自伝〈上〉   モスクワの冬

 『モスクワの冬』はゲルショム・ショーレムが「まえがき」で書いているように、「それはまぎれもなく、ベンヤミンの生涯の重要な一章について私たちがもっているほかのどんなものよりもはるかに個人的な、一切を容赦なくさらけだした赤裸々な記録である」し、「著者自身の検閲を経ることなしに、描述した、完結した著作である」と。それは『モスクワの冬』の原著刊行が一九八〇年で、ベンヤミンの死後、発見されたモスクワ日記の刊行を意味していることになろう。

 一九二六年十二月六日から翌年一月末までのベンヤミンのベルリンからのモスクワ訪問は、彼の恋愛問題、ロシア状況を正確につかみ、ドイツ共産党への入党に関する決着をつけたいという希望が含まれていた。その旅費と滞在費は後で書かれる「モスクワ」(「都市の肖像」所収、『ベンヤミン著作集』11、晶文社)などの評論の前払い金によってまかなわれたのである。彼は『モスクワの冬』を次のように始めている。

ヴァルター・ベンヤミン著作集 11 (11) 都市の肖像

 一二月九日 到着したのは一二月六日。列車のなかで、だれも駅に出迎えてくれない場合にそなえて、ホテルの名前と所在地を頭に刻みこんだ。(中略)白ロシア=バルト駅から出ようとしたときに、ライヒがやって来た。列車は時刻ぴったり一秒の遅れもなしに着いたのだった。(中略)この日は雪解け模様で暖かだった。雪と泥で光っている幅の広いトヴェールスカヤ通りを何分か走ると、路端でアーシャが手を振っていた。ライヒが橇を降り、ホテルはそこから目と鼻の先だったので、彼は歩いてゆくといい、こちらはアーシャと一緒に橇でいった。

 『モスクワの冬』がベンヤミンの恋愛問題をテーマとすることを告げるように、ライヒとアーシャがたちまち登場する。ライヒはベルリンの演出家で劇評家、アーシャはレッドランド人、ボルシェヴィキの女優でライヒの生涯の伴侶だったが、二四年にベンヤミンと知り合い、所謂三角関係に陥っていた。二六年にライヒとアーシャはロシアへ移住し、彼女のほうは神経衰弱となり、ゴーリキー通りに近いロット・サナトリウムに入院していた。

 三人がめざしたホテルは同じトヴェールスカヤ通りであるけれど、その後の記述から考えても、ホテル・ルックスではない。ライヒはいつもベンヤミンのホテルの部屋にやってきて泊まったりしているのだが、その理由の一端はライヒが住んでいる部屋は物置のごとく物がつまった「これ以上物凄い住居は夢にも思い浮かべることはできないような」アパートの一角だったからだ。それはアーシャのサナトリウムにしても同様だったからこそ、ベンヤミンのホテルの部屋が三人の落ち合うトポスともなったのである。たとえそれが勘定は日払いで、「モスクワ宿泊施設」という家具にブリキの備品票と備品番号がつき、小さな洗面台はブリキ製で、蛇口をひねっても水は少ししか出ないし、部屋の窓はパテで目張りされていたとしても。

 ここまで読んでいくと、ベンヤミンのホテルの名前は出てこないにしても、ホテル・ルックスではないことが否応なくわかってくる。しかし明らかにホテル・ルックスにヨーゼフ・ロートが泊まっていて、ベンヤミンを昼食に招待する。ロートはオーストリアの作家で、二一年にベルリンに移り、フランクフルト新聞特派員として、ロシアで暮らしていたのである。ベンヤミンは訪ねていく。

 ロートはすでに広い食堂にいた。彼は騒々しい楽園、天井までの半分の高さしかない棕櫚の木、雑然としたバーやビュッフェ、そして仕度のできた色彩の乏しい上品なテーブルとともに、はるか東方の地に進出したヨーロッパ風の豪華ホテルと一体となって、訪ねたこちらを迎えた。ロシアに来てからはじめてウォッカを飲む。そしてキャビア、冷肉、コンボットを食べた。(中略)ロートはどうやら豪勢にやっているようだ。ホテルの―レストラン同様西欧風の設備のととのった―部屋はずいぶん高いに違いないし、(中略)ひと言でいえば、彼は(ほとんど)信念をもったボルシェヴィキとしてロシアにやって来たが、去るときは王政主義者だったということである。毎度のことだが、この国は(「左翼」反対派と愚かな楽天主義に染まって)赤がかったバラ色をおびた政治家としてここにやって来た旅行者にたいしては、主義見解の色変わりの費用を負担しなければならないのだ。

 それがホテル・ルックスの役割でもあったことになろう。ベンヤミンが「モスクワ」で今日のロシアは「階級国家であるばかりでなく、身分制(カースト)国家」で、「市民の社会的価値」は、もっぱら党との関係によって決定され、「どのような思想もどの一日も、そしてどんな人生もすべて研究室の実験台に載せられたようなもの」だと語っているのは、そうしたホテルというトポスに表象されているヒエラルキーを指しているようにも思われる。

 ベンヤミンはロシアから戻った一九二八年にアフォーリズム集といっていい『一方通交路』(山本雅治、幅建志訳、『ベンヤミン著作集』10、同前)を刊行し、「この道は、アーシャ・ラツィス通りという。技師として、著者のなかに、この路をつけた女性の名にちなんで」という献辞を掲げている。それはともかく、『モスクワの冬』の中の「子どもという鎹で彼女と結ばれることさえできたなら、ぼくには一番なのだが」という言葉などは、著者「検閲」があれば、真っ先に削除されていたであろう。

ヴァルター・ベンヤミン著作集 (10) 一方通交路


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら