出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1469 黒田乙吉『悩める露西亜』

 友人から黒田乙吉『ソ連革命をその目で見た一日本人』を恵送された。これは大正九年に弘道館から『悩める露西亜』として刊行の一冊で、昭和四十七年に世界文庫によって、新たなタイトルで復刻されていたのである。

 黒田のことは『近代出版史探索Ⅲ』540で、ロープシンの黒田乙吉訳での『黒馬を見たり』(人文会出版部)の翻訳にふれているが、同じ著者の『蒼ざめたる馬』の青野季吉訳と異なり、ロシア語からの翻訳だと既述しておいた。ただその際には黒田のプロフィルがつかめていなかったし、著書のほうの『悩める露西亜』も知らずにいた。

 

 その後、菊地昌典『ロシア革命と日本人』(筑摩書房)や富田武『日本人記者の観た赤いロシア』(岩波書店)に目を通し、黒田乙吉がロシア革命に立ち合ったジャーナリストだったことを教示された。それを簡略にたどってみる。彼は熊本県生まれで、熊本師範卒業後、ロシア語をロシア正教会の高橋長七郎神父に学び、大正六年に大阪毎日新聞に入社し、モスクワ特派員となる。一九一七年のロシア革命に遭遇し、翌年のブレスト講話条約でモスクワを去り、帰国して、『悩める露西亜』を刊行する。二五年から二七年にかけて、二回目のモスクワ滞在となり、二六年にはモスクワ芸術学士員で開催された日本文学の夕べに片山潜とともに出席している。この滞在は家族を同伴してのもので、二七年にはゴーリキーにも会っていたらしく、『ソ連革命をその目で見た一日本人』にはゴーリキーと黒田一家の口絵写真が収録されている。

日本人記者の観た赤いロシア (岩波現代全書)

 それらの口絵写真は別にして、『悩める露西亜』にはクレムリンやモスクワ大劇場を始めとする十二枚の写真が掲載され、そこには黒田による説明も付されている。意図的と思われるのは「ソヴィエトの結婚風景」「西伯利鉄道のエキスプレス」の婦人駅長、「キャヴィアの親魚」に見られる大きな蝶鮫を手にしている女漁師の姿で、革命の中における女性解放とそのポジションの変革を浮かび上がらせようとしているのだろう。

 それらの写真と対照的に、本文は「革命の渦にまかれて」「革命ローマンス」「斜に見たる革命」「市街戦の思ひ出」などの章が並び、黒田もまた日本のジョン・リードのように、「世界をゆるがした十日間」を描き、レポートしている。「革命の渦にまかれて」から三月十三日のところを引いてみる。

 莫斯科(モスコー)市会議事堂はそのクレムリンを背に負うて(中略)前はヲスクレセンスカヤ広場から右に露国劇場の粋を集めた劇場広場、左半ば城郭の横門を這入つて歴史に名高いクレムリンの赤色広場。
 著者が市会の前まで辿り着いたのは午後二時(十三日)。赤旗を見て始めて気が付いたが、途中の店舗は皆閉鎖して業を休んでゐた、ヲスクレセンスカヤ広場ば(ママ)毒々しい五六旈の赤旗を中心に数千の群衆が黒山を築いてゐる市会正面の玄関口には送話器を持つて正服正帽の若い大学生が代る代るに出て、演説し、報告する弁士を紹介して居た(中略)。
 騒然たる叫喚と喧騒でよく聞きとれぬが、「朋友! 吾党の奮起すべき時機は来れり」とか何とか拳を握つて呼号する「ウラー」と赤旗をうち振つて応援する群衆の大多数は汚い労働者であるが、婦人もあり、知識階級も混じつてゐる、兵卒の姿さへ其処此処に見受けられるのであつた。
 (中略)示威運動の群衆が理も日もない軍隊の一斉射撃に数百、数千、数万に枕を並べて横死する惨劇を現にまのあたり知悉しながら之はまた何といふ大胆な開放的な示威であらうと著者はまた驚かされた。

 このようにして、ロシア革命は始まり、黒田はその渦中にいたことになる。レーニンはまだフィンランド駅に到着しておらず、モスクワには姿を見せていない。群衆と労働者を学生の自然発生的などよめきだけが伝わってくる。

 しかしこのようなリアルタイムといっていいロシア革命レポートはどのように読まれたのか。黒田の「序」に、発行に際しての『近代出版史探索Ⅴ』832などの昇曙夢と志垣寛への謝辞が見えるけれど、出版に至る経緯にはふれられていない。志垣は黒田と同じく熊本師範出身の教育ジャーナリストで、後に『ソウエート・ロシア新教育行』を著わしている。

 版元弘道館のことは最後になってしまったが、明治三十八年に辻本卯蔵によって創業された中等教科書、参考書、教育雑誌出版社である。その関係から、教育ジャーナリストの志垣を通じて、弘道館からの出版となったのではないだろうか。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら