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古本夜話1480 『短歌文学全集』と『吉井勇篇』

 第一書房の「戦時体制版」には川田順の『幕末愛国歌』と『定本吉野朝の悲歌』の二著が入っている。

 

 川田といえば、最近「『定本川田順歌集』と『老いらくの恋』」(『古本屋散策』234、『日本古書通信』連載』)を書いたこともあって、「川田順自伝」とされる『葵の女』(講談社、昭和三十四年)、及び彼の「老いらくの恋」を描いた辻井喬の『虹の岬』(中央公論社、平成六年)を読んでいる。するとすると前者には出てこないけれど、後者には晩年に川田と吉井勇が胸襟を開く関係にあったことにもふれていた。そのことに関して「吉井勇の、享楽的な頽廃した歌風は、戦争中にこの非常時に非国民的だと言われていたから『吉野朝の悲歌』などの戦時三部作の川田とは歌いぶりは対照的であった」ので、「老いらくの恋」の相手である祥子が意外に思う場面も描かれていたのである。ただその後、実際に吉井が登場するのは『虹の岬』のほぼ終盤のシーンだけなのだが。

 虹の岬 

 吉井のことは『近代出版史探索Ⅵ』1168で言及しているが、実は第一書房の『短歌文学全集』の『吉井勇篇』も手元にある。この全集は昭和十一年から十二年にかけて、予約申込金五十銭、予約価一円五十銭として刊行されたものであり、その全十五巻リストを示す。

 1『若山牧水篇』
 2『石川啄木篇』
 3『与謝野晶子篇』
 4『北原白秋篇』
 5『前田夕暮篇』
 6『釈迢空篇』
 7『窪田空穂篇』
 8『木下利玄篇』
 9『島木赤彦篇』
 10『斎藤茂吉篇』
 11『佐佐木信綱篇』
 12『伊藤佐千夫篇』
 13『吉井勇篇』
 14『石原純篇』
 15『尾上紫舟篇』

 

 どうして川田が入っていないのか気になるけれど、この『短歌文学全集』『日本近代文学大事典』第六巻に解題が見出され、「歌論、随筆、感想、紀行、書翰、日記をも収む」「名歌と名文との交響楽的アンソロシイ」というかたちで編集されたとの説明がある。確かに『吉井勇篇』を繰ってみると、一月から十二月に分けての構成で、それぞれに季節に合わせた歌や文章が配列され、最後に自筆の「年譜」と「自編後記」が置かれている。しかし『吉井勇篇』しか見ていないし、こうした「自編」がすでに物故者である牧水や啄木には不可能なので、全巻に共通しているとは言えないだろう。それらは別の編者がいたはずで、いずれそれらも確かめてみたいと思う。

 だが『吉井勇篇』の場合、「自編」は吉井の三十数年に及ぶ歌とエッセイの卓抜なアンソロジーとなっている。双方に言及することはできないので、エッセイに限れば、それらは秀逸な証言、人物論であり、そうした書物や人間に接することを通じて、吉井の歌も生まれていったのではないかとも推測される。どの書物と人物の出会いを紹介しようか、いささか迷ったのだが、ここでは吉井の若かりし姿を重ね合わせるような『即興詩人』を取り上げてみる。それは中学二年の時の出会いだった。

 私位あ位意味での宿命的感化を、この『即興詩人』の一篇から受けたものは、あまり多くはあるまいと思ふ。広告を見てから出るのを待ち兼ねるやうにして、忘れもしない三田通りの慶応義塾の直ぐ下にあつた、福島屋といふ本屋でそれを買つて、その夜一気に読了してしまつたのであるが、それはあたかも『即興詩人』の主人公アントニオが、ひそかに禁制のダンテの『神曲』を市中の露肆(ほしみせ)から購い求めて読んだ後で、まるで魔ものにでもつかれたやうに、夢中で囈口(うはごと)といつたりするやうになつたのと、同じやうな感激を得たのだつた。
 『即興詩人』を読んで以来、私の年若い、さなきだに感じやすく傷みやすい心には、当然著しい変化が起こつて来た。アントニオは「われ生れかはりたる如くなりき」といつてゐるが、私も私の「神曲」である、『即興詩人』を読んでからは、全く生れ変つたといつてもいい位、自分の情緒が豊かに美しくなつてゆくのを感じた。(後略)

 アンデルセンの原作以上の森鷗外の名訳とされる『即興詩人』を読んだことによって、吉井は「詩といふ神のめづらしき賜(たまもの)」に没頭するようになったのである。それは昭和九年の土佐の山峡の生活の中でも思い出され、『即興詩人』のどこかの一齣(コマ)が想起されるのである。

 『即興詩人』が春陽堂から発売されたのは、明治三十五年九月のことだった。


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