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古本夜話1482 『美しい暮しの手帖』と片山廣子『燈火節』

 本探索1478で、第一書房の長谷川巳之吉と『暮しの手帖』の花森安治がともに伊藤(伊東)胡蝶園と関係があり、また花森の大政翼賛会を通じて、長谷川と面識があったのではないかという推測を既述しておいた。そのような想像をたくましくさせるのは、前回の片山廣子の存在に他ならない。

 私は河津一哉、北村正之『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(「出版人に聞く」20)において、片山に関して次のように言及している。

『暮しの手帖』と花森安治の素顔 (出版人に聞く)

 そこで気になるのは片山廣子の『燈火節』(一九五三年)です。これは第三回エッセイスト・クラブ賞を受け、近年月曜社から復刊されていますが、彼女は近代出版史、文学史上においてもかなり重要な人物で、長谷川巳之吉が第一書房を始めるに当たってのパトロンだった。
 ペンネームは松村みね子といって、歌人であると同時に鈴木大拙夫人のベアトリスを通じてアイルランド文学に親しみ、ダンセニイやシングの戯曲を翻訳している。その一方で軽井沢における芥川龍之介や堀辰雄たちのミューズ的存在でもあった。

 どうしてこうした言が発せられたかというと、昭和二十三年の『美しい暮しの手帖』(『暮しの手帖』の前身)の創刊号にアイルランド文学研究家として、片山の「乾あんず」が寄せられていたからだ。このように時代を示さなければ、「美しい暮し」と同じく、とても敗戦後の混乱の中でのエッセイとは思われず、武蔵野の自宅の雨にうす青く煙る芝庭の光景から始まり、乾あんずや干し葡萄などへの連想へと進み、『旧約聖書』やイエーツの詩に及び、「村里(むらざと)の雨降る日も愉しい」と結ばれている。

美しい暮しの手帖 第一号

 続けて片山は「その他もろもろ」「古い伝説」「季節の変るごとに」「ばらの花五つ」を書き、第三号の「その他もろもろ」の初出においては、『美しい暮しの手帖』が「美しい暮し」の手帖か」、美しい「暮しの手帖」のどちらなのかを問い、「『美しい暮し』といふところまで行きつくのには、まだ途は遠いであらうかと思はれる」と付記していたのである。これらは『燈火節』に収録されたが、暮しの手帖社版は入手していないので、それらに小説、童話、初期文集なども収録した片山廣子、松村みね子の月曜社版『燈火節』(平成十六年)によっている。

(暮しの手帖社版) 燈火節―随筆+小説集(月曜社版)

 これらの片山の夢幻的なエッセイを読んでいると、彼女が『美しい暮しの手帖』にどこからか降り立ってきた天使のようも思われてくる。彼女はどこからやってきたのだろうか。そうした私の問いに対して、昭和三十二年に初めての公募社員として暮しの手帖社に入社した河津一哉は次のように応じている。『燈火節』は入社以前のものなので、その出版経緯はわからない。ただ想像できるのは『暮しの手帖』創刊以前の人脈で、花森と大橋鎭子に共通しているのは『日本読書新聞』編集長田所太郎とその関係者たち、花森の場合は旧制松江高校、東大、帝国大学新聞、画家の佐野繁次郎と伊東胡蝶園関係者、大政翼賛会のメンバーだと思う。

 これらの二人の人脈と関係者がメインとなり、創刊号に寄稿し、それが初期の単行本の著者となっていったと考えられる。しかし戦後の創業期の人々にしても、資金にしても、動きが激しかったであろう実情や詳細はつかめない。

 それではどのようにして片山は『美しい暮しの手帖』へと召喚されたのであろうか。それは長谷川巳之吉のラインからと考えるしかない。昭和十七年に長谷川は第一書房の後継者として、片山の長男の吉村鉄太郎(片山達吉)を指名し、吉村は専務に就任していた。それは片山廣子が第一書房創業のパトロンだったことや、『近代劇全集』のブレインにして翻訳者であったことも絡んでいるだろうし、長谷川と第一書房と片山廣子は目に見えない三位一体の関係を形成していたことなどに起因しているのだろう。いってみれば、片山は第一書房の隠れたるミューズだった。

 しかし第一書房は昭和十九年に一切の権利を講談社へと譲渡し、廃業してしまい、二十年に辰吉も死去してしまう。そのような中にあって、花森と『美しい暮しの手帖』へと片山を誘ったのは長谷川のはずだし、『近代劇全集』所収のイエーツ『鷹の井戸』の昭和二十八年の角川文庫化も同様だと思われる。

(『近代劇全集』25)

 ちなみに『燈火節』=Candlemas とは二月二日の春を迎えて、ブリジッドという火を守る守護神の日で、ろうそく行列をして一年間用いるろうそくを祓い清める風習を意味するという。片山廣子も近代出版の道を照らすろうそくのような存在であったのかもしれない。


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