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古本夜話1493 『文学界』中原中也追悼号

 続けて取り上げて来た『四季』と同じく、冬至書房の「近代文芸復刻叢刊」として、『文学界の』中原中也追悼号(昭和十二年十二月号)も復刻されている。これも手元にあるので、そこに寄せられた十本の「追悼」を挙げてみる。

 

 *「追悼」/島木健作
 *「中原のこと」/阿部六郎
 *「中原中也」/草野心平
 *「鎌倉の曇り日」/菊岡久利
 *「独り言」/青山二郎
 *「死んだ中原(詩)」/小林秀雄
 *「挽歌(詩)」/菊岡久利
 *「中原中也の印象」/萩原朔太郎
 *「死んだ中原中也」/河上徹太郎
 *「北澤時代以後」/関口隆克

 これらに寄り添うように「桑名の駅」「少女と雨」「僕が知る」「無題」の四編が「中原中也遺作集」として掲載されている。これらの詩編は中原の死後に刊行の『在りし日の歌』(創元社、昭和十三年)には収録されていない。それは小林が巻末後記に当たる「中原の遺稿」で語っているように、中原が「整理に捨てたものである」。中原は死の三週間ほど前に、第一詩集『山羊の歌』(文圃堂、昭和九年)以後の詩をまとめ、『在りし日の歌』と題し、「目次」と「後記」も付し、小林にその刊行を托した。小林は書いている。 
「在りし日の歌」 中原中也:著 創元社版 精選名著復刻全集 近代文学館 /昭和49年発行 ほるぷ出版  

 彼は死ぬ前に、もういくら歌つても「在りし日の歌」しか歌へない様な気持ちになつてゐたらしい。そして「在りし日」にきつぱり別れを告げる決心がだんゝゝ出来て来てゐたらしい詩集の出版を托された時にも僕はさういふ積りであらうと思つた。

 それゆえに追悼号における中原の「遺作集」は「彼が発表するに及ばずと認めたものばかり」ということになる。しかし小林にしてみれば、「詩の出来不出来など元来この詩人には大した意味はない。それほど、詩は彼の生身の様なものになつてゐた。どんな切れつぱしにも彼自身があつた」のだ。戦後になってこれらの詩は『中原中也全集』(第2巻、角川書店、昭和四十二年)に収録された。
 

 さて前後してしまったが、小林の「死んだ中原(詩)」はかつて『小林秀雄全集』(第二巻、新潮社)で読んでいたことを思い出す。初出はこの『文学界』追悼号だったのだ。だが小林のそれよりも、その交際を含めて意外だったので、萩原朔太郎の「中原中也の印象」を紹介しようかと考えたけれど、ある意味において、詩人による詩人の追悼は、あくまでその法(のり)をこえるものではない。そのような視点からみるならば、異色な追悼は青山二郎の「独り言」であり、それは中原の死と彼をめぐるグループのパロディの様相を呈している。

 青山に関しては『近代出版史探索Ⅳ』1155で、その評伝も示し、筑摩書房の創業期の装幀家だったことにふれているし、この「独り言」にしても、『青山二郎文集』(小沢書店)に収録があると思われるが、この一文は『文学界』追悼号において読まれないと、意味不明のニュアンスが強いし、生前の中原と青山の関係を浮かび上がらせているようだ。中原の死後の神話化への危惧もこめられていよう。青山は「芸術が国境を越えたり、後世に遺つたりする事は疑はしいですぞ」と始め、次のように書いている。

 中原が死んだ、中原の名簿には実用品特売デーの品目のやうに、二百からの名前があつた。中原中原と話の種がまた一つ増へて聞くに堪へないことじや。恁うなると特売品自身のヂンダである。方々では中原追悼の記事が出る話、やれ非情の詩人だとか、やれ非常の風格の芸術家だとか、七十五日は見ものである。

 それから青山は中原の病院につめ、三晩のお通夜と告別式に集った小林と河上徹太郎を筆頭とし、次の六人を挙げている。それらは俗語なので、実名を補ってしめす。「お坊の春吉」=岡田春吉、彫刻家、「葬儀屋の隆克」=関口隆克、文部省、「どもりの幸一」=高橋幸一、中原夫人の実家にいるどもりの人、「いがぐりの昇平」=大岡昇平、「物識りの生蕃」=佐藤正彰、フランス文学者である。

 これらのうちで追悼を寄せているのは「北澤時代以後」の関口だけだが、中原の病院での臨終、通夜、告別式までに集った人々のそれぞれの中原をめぐるドラマが展開されていたのであり、それを青山は「独り言」という一筆描きの野辺送りの歌の向こうには、国木田独歩の病床の出来事とその死の記録が重なってくるかのようだ。

 なお中原が入院し、死去した病院は中村古峡の営む千葉の精神病院においてだった。中村に関しては拙稿「中村古峡の出版」(『古本屋散策』所収)を参照されたい。

古本屋散策


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