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古本夜話1530 中央美術社「漫画六家撰」、下川凹天『裸の世相と女』、金子文子

 これも浜松の時代舎で入手したのだが、下川凹天の『裸の世相と女』が手元にある。同書は昭和四年に中央美術社から「漫画六家撰」シリーズの一冊として刊行されているので、はやり円本時代の企画のひとつに数えられるだろう。それゆえに、この「漫画六家撰リスト」を先に挙げておこう。

   「漫画六家撰」

1  田中比左良 『女性美建立』
2  和田邦坊 『退屈世界』
3  下川凹天 『裸の世相と女』
4  細木原青起 『ふし穴から』
5  宍戸左行 『ユーモア錠剤』
6  河盛久夫 『尖端を行く』

 私が所持する3はタイトルにふさわしい函無し裸本だが、表紙に凹天による女性の彩色した顔と胸部ヌード、裏表紙には裸の資本家らしき男の姿とサタンのような覆面の怪人が描かれていることからすれば、おそらく函にしても、それなりに目をひく装幀に仕上がっていたように思われる。またそれがこの「漫画六家撰」の特色だったかもしれないので、『裸の世相と女』がまさに裸本なのは残念な気がする。また見返しのヌードスケッチや本文の多くの漫画を見ても、そのことを連想してしまうし、昭和初期の漫画の位相とはそうした事象と不可分のようにも感じられるからだ。

 その「序」はそれらを暗示させるように書かれている。

 漫画の面白さは、漫画家自身の観察の妙味と其れから火花の如く発するユウモア、ウイツト、お可笑味が相まつて価値づけられるものである。故に単にユウモア、ウイツト、お可笑味のみをもつて価値づける可きものではない。漫画家自身の観察力、乃ち社会観人生観等の鋭い思想的背景に重きを置くべきである。如何にユウモア、ウイツト、お可笑味が華々しくともそれは所詮根も無い造花に過ぎない。根有る花は例へ華々しき花は咲かなくとも必ず人の心の奥へ触れる何ものかがあるものである。何と云つても漫画家の愉快さは漫画的効果にある。自分の描いた一枚の画の為めに多数の人々が不安を感じたり痛快を感じたりする其快感は例へ様なきサタンの喜びであらう。

 ということは裏表紙に資本家らしき男とサタンのような覆面の怪人が描かれていることを先述したが、その「サタン」とは凹天に他ならないことになる。

 『裸の世相と女』は政治、社会、生活、婦人のそれぞれの漫画篇と論文篇から構成され、「政治漫画篇」から「サタン」もどきということもあり、「文子が若槻首相のイスへ移る!」と題する故金子文子がガイコツ姿で若槻首相の膝に乗っている漫画を取り上げてみよう。それはかつて「春秋社と金子ふみ子の『何が私をかうさせたか』」(『古本探究』所収)を書いてもいるからだ。

 その前に所謂朴烈事件にふれておくべきだろう。朴烈と一緒に金子文子は関東大震災後の大正十二年九月に保護検束の名目で捕えられ、十月に治安警察法違反で市ヶ谷刑務所に起訴収容、十三年に爆発物取締罰則違反で追訴、十四年に大逆罪容疑で起訴、十五年三月に大審院法廷で死刑宣告、後に無期懲役に減刑となったが、その七月に栃木県女囚支所房で縊死している。その後予審調査で朴烈と金子の同席抱擁している写真が国家主義者たちの手によって各方面に配布され、野党の立憲政友会と政友本党は当局の取り調べが生温いとして、若槻内閣の倒閣運動に利用したのである。

 漫画「文子が若槻首相のイスへ移る!」はその風刺といえる。その下には「文子が朴烈のイスへ移つた、それが怪写真の原因! 今や怪写真は政争の具となつて文子が若槻首相の椅子へ移つてイスをグラツカせて居る」とのキャプションが置かれ、倒閣運動に利用されたことを浮かび上がらせている。

 戦後になって瀬戸内晴美が『余白の春』(昭和四十七年、中央公論社)を書いた。これは金子文子を主人公とするモデル小説というよりも、ノンフィクションの色彩が強く、金子の『何が私をかうさせたか』の成立、及び怪写真の真相も明らかにされるに至った。それによれば、そこに「序文」を寄せている立松懐清予審判事のすすめで金子は裁判の参考資料を目的として手記を書き出したのだが、長らく立松の手元にとどめられたことで、その出版が没後五年を過ぎてしまったのである。しかも写真も立松が撮り、立松と朴烈の合意の上で流出したものとされる。

  何が私をこうさせたか 新版: 獄中手記

 それが巡り巡って政争の道具にしようされることになったのであり、「サタン」としての「漫画家自身の観察力、乃ち社会観人生観等の鋭い思想的背景」を有する凹天にとって、その「漫画的効果は弱者の味方になつて強者へ打突かる時にのみ最大の力を発揮する」と考えたにちがいない。

 なお最後になってしまったが、『現代人名情報事典』(平凡社)に凹天の立項を見出したので、引いておく。こちらも最後のところに『裸の世相と女』が置かれ、通底しているように思われるからだ。

 現代人名情報事典

 下川凹天 しもかわおうてん
 漫画家 【生】沖縄1892.5.2-1973.5.26 本名貞矩 【学】1907青山学院中退 【経】1906北沢楽天に師事、大阪朝日新聞、読売新聞、毎夕新聞等で似顔絵やエロチックな漫画、風俗漫画を描く。他方、17動画フィルムを作成、漫画映画のパイオニアでもある。【著】1930《男やもめの巌さん》、他に《剛ちゃんの人生日記》《漫画人物描法》《凸凹人間》《裸の世相と女》

 なお平成二十九年に韓国で、イ・ジュンイク監督、チェ・ヒソ、イ・ジェフン主演の映画『金子文子と朴烈』が公開され、日本でもロングランとなったことを付記しておく。

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