出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1540 『詩・現実』と辻野久憲

 『詩・現実』第二冊から第五冊にかけて、伊藤整、辻野久憲、永松定訳のジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』が翻訳連載されるのだが、この三人の訳者たちは同時に『詩・現実』の様々な分野における寄稿者でもあった。伊藤と永松に関しては『近代出版史探索Ⅵ』1008や1035などでふれているので、ここでは本探索に続けてもう一度辻野に言及してみたい。

 先にふれておいたように、辻野は明治四十二年舞鶴に生まれ、三高を経て、東京帝大仏文科に進み、在学中に『詩・現実』の同人となり、その第一冊に「現代フランス文学の二主潮」を寄せ、注目されたという。これはサブタイトル「外在的現実か内在的現実か」が付され、二十世紀初頭の相次ぐ社会的大変動を受けた現代フランス文学の動向をレポートしている。それは主として、アンドレ・ベルジュの『近代文学真髄』(Andrè Berge, L‘Esprit de la littérature moderne)に依拠するもので、今日のフランス文学は「外在的(或は顕在的)現実追求の文学」と「内在的(或は内包的)現実追求の文学」の二つの流派にわかれているという主張で、それがサブタイトルの意味となっている。

 前者は絵画的なもの、異国趣味的なもの、幻想的なものにさらにわかれ、それぞれの作品が例として挙げられ、論じられる。また後者においては「心理的傾向」が論じられ、心理的な文学はフランス文学の最も伝統的な形式だが、現代的方法の特殊な進歩として、「内白と超現実主義」が指摘される。そして「内白 monologue intèrieur」とは「我々の意識の流れを写す方法で、(中略)思考の流れの間に、時として外部からの感覚と印象とが浮かび上るが、間もなくそれもこの流れの中に曳入れられてしまふ」ものだとされる。それに対し、「超現実主義」は「より深い現実からの自発的な飛躍を狙つたもの」と簡略に定義されている。

 それらを含めて、現代の心理学的文学はきわめて広大な領域に及ぶのだが、やはり二大傾向にわかれる。「一はプルウストによつて代表される知的傾向であるとすれば、他はジッドを長とする情的傾向である」として、次のように述べられている。

 たゞ此の場合、プルウストによつて追求された現実と、ジッドによつて追求されたそれと、この両者は全然同一のものではないことを注意する必要がある。即ち前者は人生の方向をとり、後者は人間性の方向をとつてゐる。換言すれば、我々の存在から「人生」の要素を遊離させるのものは知性であるに対し、意識の内面に於て我々の感性が捕へるある物が即ち人間性である。この点より見れば、プルウストは単なる観察家だと云ふことが出来る。何故なら彼の主人公は自己自身の中に人生の実相を探ねる。即ち彼等が行ふ行動は稀であり、低調であり、偶々彼らの「自我」の表面に浮上るに過ぎない。これに対してジッドの人物は、彼等の身振りによつて自己を表現するのである。彼の追求する現実は外部に認められ、且それは彼等を行動に駆立てるのである。

 この「現代フランス文学の二主潮」が書かれたのは昭和五年=一九三〇年であるから、プルーストは『失われた時を求めて』全七巻を刊行し、二二年に亡くなり、ジッドは『新フランンス評論』(NRF)を創刊し、『狭き門』を連載し、続けて『法王庁の抜け穴』『田園交響楽』『贋金づくり』『一粒の麦もし死なずば』などのレシ(物語)、ソチ(茶番劇)、ロマン、自伝を書き継いでいた。したがって、辻野の論稿が示す「現代の二主潮」とはプルーストとジッドのことを意味していたともいえるのである。『近代出版史探索Ⅴ』816、817などで、日本でもジイドの時代が訪れていたことを既述している。

 それらを象徴するように、『詩・現実』第四冊にはマルセル・プルウスト『失ひし時を索めて』の第一巻『スワン家の方エ』刊行の二ページ広告が打たれている。また第一冊の伊藤整「ジェイムズ・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」は第二冊からの『ユリシイズ』の連載の露払いの役割を務めているのだろう。そのようにして、日本においてもプルーストとジョイスがまさにエピファニーせんとしてるのだ。

(『失ひし時を索めて』)(『ユリシイズ』)

 それは「展望」コーナーに掲載された「現代フランス文学の二主潮」以外の、小宮山敏「最近ソヴェート文壇の動勢」、武田忠哉「最近ドイツ文壇の展望」、遠山宣次「現代アメリカ文壇鳥瞰図」も同様の役割を果たそうとしているように思える。小宮山はソヴェート文壇におけるプロレタリア文学のヘゲモニーの獲得の問題、武田はドイツのノイエ・ザハリヒカイト文学の報告、遠山はアメリカの出版界の隆盛に伴う大量生産とベストセラー現象を論じ、辻野と同様に、世界文学のメインストリームとそれぞれの問題を取り上げていることになる。

 それが辻野のいうところの「我々は現実を観なければならぬ。芸術のみが現実よりの遊離に於いて存在し得るといふのは、一つの幻想に過ぎない」との言の表象でもあろう。だが今回はさらに辻野とジッドに関して言及できなかったので、次回に譲ることにしたい。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら