三好達治の「郷愁」という詩を知ったのは『三好達治詩集』(新潮文庫)か、もしくはやはり新潮社の『日本詩人全集』の一冊で、高校の図書室においてだったと思う。その全文を引いてみる。
蝶のやうな私の郷愁!・・・・・・。蝶はいくつかの籬(まがき)を越え、午後の街角に海を見る・・・・・・。私は壁に海を聴く・・・・・・。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。
そして後にフランス語にふれるようになって、具体的に「海」が la mer、「母」が la mère で、「母」の中に「海」を見つけたのである。
この「郷愁」は石原八束の『駱駝の瘤にまたがって――三好達治伝』(新潮社)によれば、第一書房の詩雑誌『オルフェオン』の昭和五年二月号に掲載された。『オルフェオン』は堀口大学による編集で、やはり同年に第一書房からこの詩を収録した三好の処女詩集『測量船』が刊行され、堀口の絶賛を受けることになる。しかもそれは「郷愁」の「――海よ、」から始まる三行を示し、「三好君の日本語の美しさ」へのオマージュに他ならなかった。その長き全文は石原の著書に引かれているので、そちらを参照されたい。
『測量船』は第一書房の「今日の詩人叢書」の一冊として出され、近代文学館の復刻を確認すると、「同叢書」は初版千部、一円とあり、次のような十冊が予定されていた。
1 | 堀口大学訳 | 『ポオル・ヴァレリイ詩論』 |
2 | 三好達治 | 『詩集 測量船』 |
3 | 岩佐東一郎 | 『詩集 航空術』 |
4 | 城左門 | 『詩集 近世無頼』 |
5 | 田中冬二 | 『詩集 海の見える石段』 |
6 | 青柳瑞穂 | 『詩集 睡眠』 |
7 | 竹中郁 | 『詩集 象牙海岸』 |
8 | 菱山修三 | 『詩集 懸崖』 |
9 | 三浦逸雄訳 | 『南風港市』 |
10 | 中山省三郎訳 | 『森林帯』 |
(『象牙海岸』)
だが『第一書房長谷川巳之吉』所収の「第一書房刊行図書目録」を繰ってみると、「昭和五年から六年にかけて、7までは刊行されたが、それ以後の三冊は未刊に終わったようである。1に関しては『近代出版史探索Ⅴ』813でふれているが、ちなみに9は「イタリア訳詩集」、10は「ロシア訳詩集」だった。
第一書房特有の豪華本に当たる大正四年の堀口大学訳『月下の一群』の四円八〇銭、昭和三年の『萩原朔太郎詩集』の六円に比べれば、「同叢書」の一円は安いといえるかもしれない。だが昭和円本時代はまだ終わっていなかったし、『測量船』が函入特製本だったとしても、わずか一一七ページであり、読者は限られていたと考えるべきで、三冊の未刊はその事実を告げているのだろう。
『第一書房長谷川巳之吉』において、「長谷川は、特に詩の目利きとして抜群の力を発揮した。三好達治の『測量船』(昭5・12・20)を含む『今日の詩人叢書』収録の詩人たちをはじめ、長谷川の手によって世に出た者は少なくない」と書かれている。もちろんそのことを認めるにやぶさかではないけれど、「同叢書」の詩人たちのラインナップを見ると、前述の『オルフェオン』から生まれたシリーズのようにも思える。
この『オルフェオン』は未見だが、『日本近代文学大事典』によれば、次のような経緯と事情によっている。昭和三年に日夏耿之介、堀口、西條八十の共同編集で、第一書房から高踏的詩誌『パンテオン』が創刊されるが、日夏と堀口の間に作品の評論をめぐる対立が生じ、全十冊で終刊となる。こちらも未見である。このあとを継いだのが堀口編集の『オルフェオン』で、彼の翻訳を中心として、三好、青柳瑞穂、岩佐東一郎、田中冬二、菱山修三たちが参加し、抒情詩の新しい流域をなしたとされる。この『オルフェオン』の参加者たちが「今日の詩人叢書」の主たるメンバーであることからすれば、後者は前者と併走する単行本の叢書化の試みだったことになろう。
また三好に焦点を当てれば、「菊」と「郷愁」は『オルフェオン』、「私と雪と」は『文学』、「パン」は『作品』、「獅子」は『詩・現実』にそれぞれ発表されたものであり、それらの業績が『測量船』に他ならない。また「落葉やんで」では伊豆の梶井基次郎からの返書が語られ、「雉」は安西冬衛、「菊」は北川冬彦に捧げられている。それらもまた同時代の同人誌とリトルマガジン人脈を浮かび上がらせ、三好の処女詩集『測量船』成立前史を物語っていよう。それらは梶井たちの『青空』、『椎の木』、安西たちの『亜』、北原白秋の『近代風景』、伊藤整編集の『信夫翁』、春山行夫の『詩と詩論』であり、そうした出版状況と雑誌環境の中から、三好もまた登場してきたのである。
なお『パンテオン』終刊後に、日夏耿之介は『游牧記』、西條八十は『蝋人形』を創刊するに至っている。
[関連リンク]
過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら