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古本夜話1561 別枝篤彦『蘭領印度』

 前回は引かなかったけれど、小出正吾『椰子の樹かげ』の「はしがき」には「蘭印生活」「蘭印ジャワ」「蘭印旅行」などのタームが使われている。それに照応するように、表裏の見返しには見開き地図が掲載され、日本、アジア大陸における満州国、支那、仏印、タイ、ビルマ、印度、マレーの外に、太平洋とインド洋の間に位置する赤道下の蘭印が示されている。『椰子の樹かげ』出版の昭和十六年という時代からして、装画の三雲祥之助によるのであろう、この手書き地図が大東亜共栄圏を表象しているとわかる。

 この「蘭印」の書名タイトルは『近代出版史探索Ⅳ』675の大谷光瑞『蘭領東印度地誌』、澁川環樹『蘭印踏破行』『同Ⅴ』925の金子光晴『マレー蘭印紀行』などにも見えていたが、最近になって別枝篤彦『蘭領印度』という一冊を拾っている。これは『同Ⅴ』901でその明細を上げておいた白揚社の『世界地理政治大系』第四巻にあたり、この監修者は京都帝大教授、地理学者の小牧実繁、大東亜共栄圏構想下における地政学的政治地理学に相当する企画だと指摘しておいた。別枝は大阪商科大学予科兼高商部教授で、巻末の『蘭領印度』の「内容」紹介には次のようにある。

  マレー蘭印紀行 改版 (中公文庫 か 18-8)   (『蘭領印度』) 

 本巻に於ては先づ此の島嶼世界の有つ優秀な地理性を論じ、次で之が為に欧米諸国家が本地域を去る遠く数千里の彼方にあるに拘らず、夙に如何なる手段を以て此処に進出し土民社会を巧妙に操縦して、その経済産業を自己の利益の為にのみ発展せしめ、以て此の地域本来の東亜的性格を失はしめたかを地政学の立場より摘発し、更に進んでアジア民族共存共栄の見地より、今後我国の蘭印に対して執るべき地政学的建設方策を論ずる。即ちこれは南溟の天地に寄せる大和民族の郷愁であると共に、八紘一宇の精神に基く高き新秩序と人類愛への叫びである。

 これは別枝によるものであろう。彼は第五巻『太平洋』も担当し、『現代人名情報事典』(平凡社)によれば、京都帝大出身で、ジャワ派遣軍所属南方文化研究室室長も務めている。したがって、小牧門下の地理学者として、『世界地理政治大系』の企画編集の中心人物とみなせるし、小出や三雲、また『近代出版史探索Ⅱ』357の『瓜哇の古代芸術』の太田三郎とも面識があったと思われる。

 現代人名情報事典

 この『蘭領印度』の「序」を読むと、ドイツ的環境の必然の所産としての国家、民族発展のためのナチス地政学が紹介されてきたが、それは「一民族一国家」に基づくもので、ヨーロッパ広域にわたる「生命圏(レーベンスラウム)」においては行き詰まり状態にあるとの分析が提出されている。それに対して、日本独自の環境に基づく高次元の地政学の理念の確立が必要であり、小牧の主張する欧米の旧殻を脱した日本的なる地理学の建設、すなわち「日本地政学宣言」を体現化し、その理念による具体的な世界各地域の研究が望まれている。そうして「アジア民族共存共栄の見地より今後我国の蘭印に対して執るべき地政学的建設方策」によって、「南溟の天地に寄せる大和民族の郷愁」「八紘一宇の精神に基く高き新秩序と人類愛への叫び」に基づき、それらを実現させなければならないのだ。

 このような視座から別枝は年来の南領印度研究者として、日本における南進論の流行に伴う「汗牛充棟も啻ならざる蘭印関係の書物が氾濫した」出版状況、「かゝる群書洪水の止めを刺す意味」で、『蘭領印度』の刊行に及んだことになる。確かに先に例として、『近代出版史探索Ⅳ』682のダイヤモンド社『南洋地理大系』、687の東邦社『南方年鑑』を始めとして、これまで南洋関連書を多く取り上げているので、昭和十年代にそれらの「書物が氾濫」し、「群書洪水」の出版状況を招いていたことを認めるにやぶさかではない。

 それらに『蘭領印度』が「止めを刺す」ことに成功したのかは判断できないけれど、別枝は蘭印地政学の特性から始め、スマトラやジャワを始めとするそれぞれの島単位での地政学的考察を披露していく。そして蘭印における外国勢力の浸潤の歴史、オランダの政策が検討され、現代における民族運動にも及んでいく。だが最後の章において、日本にとって最も重要な「蘭印資源の地政学的意義」が論じられ、農林水産から鉱産資源に、また工業の問題、資源輸送遮断の地政学的問題に至り、地政学のコアが資源に他ならないとわかる。そして『近代出版史探索Ⅴ』924の神原泰『蘭印の石油資源』が「朝日時局新輯」の一冊として刊行されたことが重なってくる。

 これらの蘭印における世界的な資源問題から連想されるのは、『近代出版史探索Ⅴ』1001でふれた南洋興発の存在である。この会社は南の満鉄、海の満鉄と称されたようで、その実像をつかんでいないけれど、やはり『同Ⅴ』936などの岡正雄たちによって『ニューギニア土俗品図集』が刊行されていることからすれば、別枝の『蘭領印度』も南洋興発と無縁ではなかったと思われる。それに南洋興発もオランダだけでなく、アメリカやイギリスのユダヤ系資本の跳梁と暗躍と対峙していたはずだ。

 これも同899の久生十蘭『魔都』で見てきているが、この小説は蘭印ならぬ仏印を舞台とし、その資源をめぐる日本のふたつの新興コンツェルンの開発主権争いが物語のコアを形成している。仏印、蘭印のいずれにしても、資源をめぐって日本的な「生命圏」の確立が焦眉の問題となっていたことを、『蘭領印度』も表象しているのだろう。

魔都 (現代教養文庫 891 久生十蘭傑作選 1)


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