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古本夜話 番外編その一の4 小野武夫『農村研究講話』と農文協『明治大正農政経済名著集』

 前回はふれなかったけれど、青木恵一郎の『日本農民運動史』は幕末から明治時代は小野武夫が書き、大正・昭和を青木が担う予定だった。ところが戦後小野が亡くなったために、それは実現しなかったが、今回の日本評論版は可能な限り小野の意図に従って、青木が書き上げたという。

 小野に関しては拙稿「郷土食、地理学、社会学」(『古本探究Ⅲ』所収)で、新渡戸稲造を後援者、柳田国男を幹事役とする郷土会のメンバーとして名前を挙げておいたけれど、プロフィルは記していない。だが幸いにして小野は『[現代日本]朝日人物事典』に適宜な立項を見出せるので、まずはそれを引いておこう。

古本探究 (3)  

 小野武夫 おの・たけお 1883・8・3~1949・6・5 農業経済史学者。大分県生まれ。大分県農学校卒業後、家業に従事したり小学校の教員をしたが、1905(明38)年日露戦争に従軍、戦後東大農学部農場見習生になる。08年農商務省雇になったが、夜間に法大などに通い、正教員の資格をとった。のち帝国農会、農商務省、海外興業調査部などに勤めたが、25(大14)年東京商大(現・一橋大)講師となり、農業博士の学位を取得。10(昭5)年社会経済史学会の創立に参画、翌31年法大教授となった。46年には土地制度史科保存会会長、47年庶民史料調査委員会委員長になった。小野の履歴は多彩だが、永小作慣行を嘱託として調査したことから研究を開始し、土地制度や農村の社会関係、さらに技術史や一揆史など農民・農業・農村史の研究に没頭した。この間に黒正巌(1895~1949)との間で百姓一揆の革命性をめぐって論争し、一揆の革命性を主張したこともある。多くの大学で教え、生涯に膨大な著書と史料集を残したが、巨大な在野的学究ともいうべき存在であった。

 小野の「膨大な著書」のうちの二冊しか入手していないのだが、それでも主著『永小作論』(『明治大正農政経済名著集』15、農文協)は手元にあるので、「永小作」とは何かを見てみる。しかし実際に読んでみると、「永小作」とは小作に付帯する永期の慣例、慣行、契約などの諸関係の総称で、小作を論じるに際して不可欠なテーマだとしても、門外漢には専門的すぎるし、ここでそれ以上言及することはあまり意味がないと思われる。

明治大正農政経済名著集 15

 そこで二冊目の『農村研究講話』(改造社、大正十四年)のほうを取り上げたい。こちらは『永小作論』と異なり「講話」のタイトルが示唆しているように啓蒙書の色彩が強いけれど、小野の農村研究者としてのポジションをよく伝えている。例えば、先の「永小作」についても、「基静的状態たる小作慣行」と「動的状態にある小作事情」の双方の調査が不可欠だと述べ、小野の農村研究専門家としての視座と前提が語られている。

 そうした基礎と綱領が示された上で、農村問題の意義、要素、焦点が提出され、「農民の住所たる村落」の研究の必然性が言及されていく。「先づ其の足を労して村に入り、村の生活裡に身を投じて煤けた茅葺屋根の臭ひやら、終日労営に従ひつゝ貧乏生活を営まねばならぬ農民の現状を見るべき」との言が発せられている。それは大正七年の郷土会による神奈川県津久井郡内郷村の調査の失敗に起因するもので、柳田国男の感想の採用、及びその際に用いられた「村落調査様式(郷土会考察)」が併録されている。後者は沿革及び住民、風土、土地、交通、農業及其他の生業、衣食住、社会生活、衛生、教化、信仰、俗伝の十一に上り、それらにさらに多くの細目が加えられているわけだから、当時の「農民の住所たる村落」、つまり農村の実相と郷土会の問題意識との乖離はいうまでもあるまい。とても「農村の現状を見るべき」村落調査にふさわしくないのであり、それゆえに失敗したと判断できよう。

 おそらくそれを教訓として、小野は農村研究にあたって、「維新以前の農家経済調査様式(著者考案)」、及び「農家経済現代調査様式」「小作慣行調査様式」「小作問題聴き取り調査様式」(いずれも農務省考察)を採用することになった。そして民俗も含んだトータルな農村アプローチではなく、コンクリートな「永小作」などに注視する専門的な農村研究者の道を歩んでいったと思われる。農商務省による小野の嘱託調査研究『永小作論』は大正十三年に『近代出版史探索Ⅵ』1081の巌松堂から自費出版されている。『農村研究講話』がその前年の刊行であることを考えれば、小野は郷土会や柳田国男の影響から離脱し、小作制度に注視する独自の農村研究者のスタンスを確認するに至ったことを自覚していたのであろう。

 そこであらためて想起されるのは、農文協の『明治大正農政経済名著集』には小野だけでなく、柳田、新渡戸稲造、那須晧の著作も含まれていることだ。そしてその総編集に携わったのは、青木恵一郎『日本農民運動史』に「序文」を寄せている農業経済学の近藤康夫である。それらの出版から考えれば、明治大正の農政学は民俗学から農民運動史までがリンクしていて、アカデミズム、民俗学、農民運動のコラボレーションを浮かび上がらせてくれるのである。


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