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古本夜話 番外編その二の6 園田一亀『韃靼漂流記』

 原書房「ユーラシア叢書」34として、園田一亀『韃靼漂流記の研究』が復刻されている。これは入手していないのだが、その後、平凡社から同じく『韃靼漂流記』(東洋文庫)として刊行されているので、こちらのほうを取り上げてみる。

  韃靼漂流記

 園田は大正半ばに満洲へ渉り、奉天新聞社、盛京時報社などに在職していたジャーナリストで、その著書は昭和一四年に南満洲鉄道株式会社鉄道総局庶務課による発行とされる。園田の「序」を読むと、その研究はまず昭和六年に「満鉄・奉天図書館叢刊」第二、同五冊として「文献を通じて観たる日本・満洲交通史の再検討・再認識」する試みとして始まった。それは「余が年来研究の道場であつた満鉄・奉天図書館を母胎として産生せるもの」で、「畏友、満鉄奉天図書館長衞藤利夫氏」に対しての多大の謝辞が寄せられている。『近代出版史探索Ⅲ』571で衛藤の戦後の一巻本選集というべき『韃靼』に言及しているが、それは園田の『韃靼漂流記』ともリンクしていたことになる。また司馬遼太郎の『韃靼疾風録』というタイトルは、園田の研究書に由来しているようだ。

  韃靼疾風録 上 (中公文庫 し 6-27) (中公文庫版)

 東洋文庫版『韃靼漂流記』はまず最初に「韃靼漂流記(石井本)」を置き、それから『韃靼漂流記の研究』へと続いている。それは徳川幕府初期の寛永二一年=一六四四年の越前商人の満洲漂流とその生還記録を刺している。前々回、昭和に入っての韃靼=タタールの定義を示しておいたが、ここでの韃靼とは満洲のことで、三百年前には日本海の彼方の大陸を韃靼と称んでいたのである。この漂流事件は清朝開国期における「日満交通史に特筆大書さるべき重大問題」ゆえに、単なる漂流談とは異なり、研究の対象にすえられたことになろう。

 その越前商民の韃靼国漂流をラフスケッチしてみる。総勢五十八人が三艘の船で、松前貿易を目的として四月一日に三国浦を出帆し、佐渡島に至ったが、五月十日に佐渡島を出た晩に大風に遭遇し、十数日にわたって海上を漂流し、彼らでいうところの韃靼国に漂着した。ところがそこで土人たちの罠にはまり、四十三人が殺害され、残りの十五人は惨殺を免れたものの俘虜となってしまった。その後、漂流地から奉天に送られ、さらに北京へと運ばれ、北京滞留一年を経て、朝鮮経由で漂流三年後に日本へと生還したのである。時は正保三年六月で、その十五人のうちの国田兵右衛門、宇野与三郎の両人は漂流者を代表し、越前から江戸へ出府し、幕府は当時者たちの漂流顛末を逐一陳述し、審問に答え、それが「韃靼漂流記」となったわけである。

 しかし徳川時代において、この記録は鎖国政策ゆえに禁書とされ、公刊は許されず、写本として好事家の間に伝わっていただけだった。それは明治に入ってもあまり変わらず、園田は「伝本」として十四の写本、活字本を挙げている。その筆頭にすえられているのが、奉天図書館長所蔵の衛藤本「韃靼物語」で、これは写本だが、活字本として石井本「異国物語」が示されている。この原本は『近代出版史探索Ⅵ』1078の博文館「帝国文庫」の石井研堂編『漂流奇談集』所収の「韃靼漂流記」で、これが先の「石井本」であり、これが巻物の「異国物語」の底本だったことが記されている。また石井は『同Ⅵ』1130の『増訂明治事物起原』の著者だが、残念ながら漂流譚事始は見当たらない。

  

 衛藤本「韃靼物語」と石井本「異国物語」しか挙げられなかったけれど、それはこのふたつが写本と活字本を代表し、その他に徳川幕府時代の文献として、寛延三年の木村理右衛門『朝鮮物語』は巻末付録として、「越前国船頭韃靼へ漂着之事」などの重要な部分が収録されている。それは早くからこの漂流事件に注視していた内藤湖南所蔵の「稀覯の珍本」と称すべき一冊で、資料的価値はないにしても、まさに小説のように読める。

 園田は多くの資料を渉猟した研究を終えるにあたって、次のような言葉で擱筆している。それを引いて本稿も閉じることにしよう。

  要するに此の韃靼漂流記は我が徳川時代日本人にして始めて満洲に入り、東から西、琿春―奉天―北京と大陸の山川広野を横断せる記録であり、大いに珍重すべきものである。同時に東洋近世史上に於ける日満両国関係の先蹤を為すものである。かく観じ来れば渺たる韃靼漂流記の史的価値は自ら明瞭である。是書に対しても何人も新たなる認識の下に再認すべきものと思ふ。満洲帝国の成立して茲に八年、今日此の研究を脱稿するに当り洵に感慨深きものあるを覚ゆる。

 あらためてその後の「韃靼」のイメージの変容に、こちらも感慨を覚えてしまう。


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