前回の小谷部全一郎の『日本及日本国民之起原』を高木彬光の『成吉思汗の秘密』で閉じた。しかしこの二人にもう一人の人物の名前を加えると、飛ばすことができない三題噺を形成してしまうので、その一編を書いておくことにする。
小谷部の同書は言及が遅れたが、「題字」は玄洋社の頭山満、『新日本史』(岩波文庫)や『二千五百年史』(講談社学術文庫)を著し、また雑誌『世界之日本』によっていた竹越與三郎が「序」を寄せている。この二人とは別に小谷部は同書を「著者ニ多年親交ヲ賜ワリタル七賢」に捧げている。それらの「七賢」とはすべて故人で、学習院長近衛篤麿、宮中顧問官二條基弘、理学博士坪井正五郎、宮内庁掌典宮地巖夫、吞象博士高島嘉右衛門、枢密顧問官小松原英太郎、天台道士杉浦重剛であり、小谷部の置かれていた社会、文化環境とその人脈が浮かび上がってくる。ただ奇異に思われるのはアメリカで神学を修めてきたにもかかわらず、キリスト教関係者が一人も挙がっていないことだ。それとさらに意外なのは高島嘉右衛門の名前である。
平凡社の『日本人名大事典』を参照すると、高島は幕末明治の実業家、易学大家で、号を呑象。天保三年常陸国に生まれ、江戸に出て材木商の丁稚となり、後に京橋木挽町に材木店を開き、鉱山の採掘にも成功するが、幕末に海外貿易を企画し、幕府の禁にふれ下獄され、獄中で易学の書を読み、易理を究める。明治を迎え、政府の命を受け、東京横浜間の鉄道と国道の開設工事に力を尽くし、また横浜ガス燈事業、育英のための横浜の高島学校の建設、石狩十勝の高島農場の開拓に携わり、北海道炭鉱鉄道会社の社長なども務める。さらに易学に通達し、明治二十八年に『高島易断』を著わして一世に聞こえ、「自ら易を一種の宗教として、その著の英訳を米国シカゴの世界宗教会議に提出せり」とある。大正三年、自らの死亡日を予告し、八十三歳にて没。
この高島に関する記述から、小谷部との関係が高島の北海道開拓事業や宗教としての易の双方にわたっていると想像される。実はその高島嘉右衛門の伝記を書いたのが他ならぬ高木彬光で、それは「易聖・高島嘉右衛門の生涯」とある『大予言者の秘密』(角川文庫)という一冊として、昭和五十四年に刊行されている。
高木の『大予言者の秘密』は「あとがき」に示されているように、大正三年の植村澄三郎『呑象高嶋嘉右衛門翁伝』(大空社、復刻)や同六年の石渡道助『高島嘉右衛門自叙伝口述』などの先人の著作を参考文献として成立している。そのこともあってか、幕末期に半分が割かれ、英国大使館建設をめぐるパークスとの交渉や、その後の横浜異人館の建設の一手引き受けに至る事業は興味深いが、晩年の易を宗教と見なし、その英訳をシカゴの世界宗教会議に提出したことには何もふれられていなかった。ただ高島の全十七冊からなるその後の著書『増補・高島易断』(明治三十四年、八幡書店復刻)が刊行されたこと、そして高島の易の門下で、高島姓を許された易者は一人もおらず、例外は高島家の血筋を引く三代目呑象だけで、その他は私淑したにしても、「営業上の損得を考えて芸名のような名前をつけただけである」との事実を知らされた。
あらためていうまでもないけれども、実用書出版物の一分野に暦があり、年末年始の書店の定番商品として、その時期には現在でも店頭に平積みされ、着実に売れていると思われる。これは少し立ち入った出版業界話になるが、これらの暦の仕入れ正味は三〜四掛けで、書店にとっては他の雑誌や書籍に比べ、三倍以上の粗利があるという特筆すべき商品に該当する。この暦の代表的な商品が高島易断の名前の入った神宮館発行のもので、高島嘉右衛門に始まっているのではないかと当然のように考えていた。
ところが高木の指摘に加えて、嘉右衛門を調べるために各種人名事典をあたっていると、『[現代日本]朝日人物事典』(朝日新聞社)の中に高島象山なる人物が立項されているのを見つけた。嘉右衛門ならぬ象山のほうが掲載に至った事情はわからないが、その記述を引いてみる。
易者。岡山県生まれ。旧姓・牧。1932年(昭7)年“高島易”の開祖・高島嘉右衛門呑象にあやかり、高島と改姓、高島象山を名乗って易業に邁進し、“だまって座ればピタリとあたる”のキャッチフレーズで易断界の大御所の一人にのし上がり、東京・神田に「高島易断総本部」を開設した。ところが59年11月24日夜、総本部待合室で、兵庫県から上京してきた若い男に長男ともども出刃庖丁で刺され、翌早朝に象山は死亡。自分の運命は一寸先も占えなかったため、易業界に複雑な波紋を呼び起こした。易業のかたわら千代田区議を務めたこともある。
これを読んで、高島暦、神宮館の暦や出版物の由来を納得した次第だ。手元に昭和三十九年刊行の高島易断所本部編纂の『天保新選 永代大雑書万暦大成』があるが、奥付の発行所は高島易断所本部神宮館と記されているので、編纂所と発行所が同一だとわかる。同書は和本仕立て、四百三十ページに及ぶ江戸時代からの暦の解説書の集大成となっていて、やはり暦が近世の出版物の一分野を占めていたことがうかがわれる。その巻末広告には易学、人相、家相、四柱推命書、まじないや占い、民間療法の本が掲載され、これらも暦と同様に近世出版物にその起源と範を求めることができよう。しかしその中に巌谷小波の弟子で、博文館の編集者だった木村小舟の『図説日本仏像大鑑』が混じっていることからすれば、神宮館の出版企画にも博文館からの継承が感じられる。
だから神宮館=「高島易断所本部」の暦は、高島象山系の「高島易断総本部」のものと異なっているとわかる。ただ全国出版物卸商業協同組合の『三十年の歩み』所収の「暦の神宮館」によれば、創業者の木村茂市郎が漢学者松田定象と知り合い、暦に加え、易書を出版するようになり、奥付発行人の木村金吾はその二代目だという。こちらも高島嘉右衛門と何の関係もなかったのだ。このような暦の出版の推移の中にも思いがけない出版史のドラマが潜んでいることになる。
なお『大予言者の秘密』における高木の「あとがき」によれば、私の偏愛する作家で、昭和五十年代前半に『呪いの聖域』(祥伝社)に始まる「えぞ共和国」シリーズを続けて発表した藤本泉が、漢文調の原文でつづられた『高島易断』の現代訳を志していたという。しかし彼女はヨーロッパに出国し、そのまま行方不明になってしまい、それは果たされなかった。残念である。
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