出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話811 ヴァレリー『詩学序説』と河盛好蔵

 前回の林達夫『文芸復興』の戦前版が巻末広告に掲載されている一冊を入手している。それは昭和十三年に小山書店から刊行されたポール・ヴァレリーの河盛好蔵訳『詩学叙説』で、菊判一一四ページ、函入の堅牢にして瀟洒な本といっていいだろう。巻末広告には林の著書の他に、アンドレ・ジイド『思索と随想』(山内義雄他訳)、バンジヤマン・クレミウ『不安と再建』(増田篤雄訳)、カルル・フオスレル『言語美学』(小林英夫訳)などのフランス文学関係書も見えている。しかしそれらの翻訳書については小山久二郎の『ひとつの時代』(六興出版)の中でも語られておらず、出版経緯と事情は詳らかでない。

f:id:OdaMitsuo:20180730170818j:plain:h120(『文芸復興』)f:id:OdaMitsuo:20180806104908j:plain:h120(『詩学序説』)f:id:OdaMitsuo:20180806111323j:plain:h120(『ひとつの時代』)

 『詩学叙説』はヴァレリーがコレージュ・ド・フランスの教授に就任し、「詩学」講座を創設した第一回の講義筆記の翻訳で、その「序文」と「詩学の講義」、及び付録としての「支那の詩」から構成されている。ヴァレリーの翻訳としては『詩論・文学』(堀口大学訳、第一書房、昭和五年)、『文学雑考』(同訳、同十年)、『ヴアリエテⅠ』(中島健蔵他訳、白水社、同七年)、『テスト氏』(小林秀雄訳、江川書房、同七年)などに続くもので、早いうちの紹介ということになろう。本連載598の『世界文豪読本全集』の一冊として、佐藤正彰の『ヴァレリイ篇』が編まれたのも、『詩学叙説』と同じ昭和十三年である。また翌年には『ヴァリエテⅡ』やアンドレ・モーロア『ポール・ヴァレリイの方法序説』(平山正訳)も白水社から出され、それらを機として、十七年の筑摩書房の佐藤を中心とする『ポオル・ヴァレリイ全集』が企画されていったと思われる。
ポオル・ヴァレリイ全集 (第7巻『精神について』)

 それはさておき、『詩学叙説』の「序文」と「詩学の講義」は文学史を「《文学》を生産もしくは消費するものとしての精神の歴史」として捉えた上で、「精神の作品」を講じたものであり、興味深いのだが、ヴァレリー的晦渋さに包まれ、長きに渡る言及を必要とする。そのことと訳者の河盛を取り上げたいこともあり、「支那の詩」にふれてみたい。これはリヤン・ツオン・タイ(梁宗岱)の仏訳『陶淵明詩集』に寄せられたヴァレリーの序文で、そこで陶淵明の「帰去来の詩」の仏訳の一節「私は窓にもたれて/楽しく愛する枝を眺めてゐる……」、あるいは「夕べの影が濃くなつてきた。/けれど私は立ち去りがてに孤松を愛撫してゐる。」にオマージュが捧げられている。

 実はここでふれたいのは、この河盛訳の「支那の詩」が同人雑誌『四季』に発表されたことである。『四季』は『日本近代文学大事典』に立項され、戦後の第三、第四次まで触れられているが、いうまでもなく、第一次、第二次に関してである。第一次は昭和八年に堀辰雄編集で、四季社から全二冊が出されている。その第二冊目にはヴァレリー『テスト氏の航海日記抄』が掲載され、注視を得たようだ。これはヴァレリー・ラルボーやレオン=ポール・ファルグたちのリトルマガジン『コルメス』を範としたもので、その創刊号にはラルボーがあのすばらしい『罰せられざる悪徳・読書』(岩崎力訳、みすず書房)を寄せている。なお同誌を含むパリのリトルマガジン状況に関しては、拙稿「オリオン通りの『本の友書店』」(『ヨーロッパ本と書店の物語』所収)を参照されたい。

罰せられざる悪徳・読書 ヨーロッパ本と書店の物語

 第二次は昭和九年から一九年にかけて、月刊誌として全八十一冊が出され、こちらは堀の他に三好達治と丸山薫による編集の詩誌で、春山行夫の『詩と詩論』の系譜を引き、モダニズムと西欧的詩法に基づく抒情詩の確立を目ざしたものとされる。後半になって、河盛好蔵も同人に名を連ねているので、その関係から、掲載号は不明だけれど、「支那の詩」の翻訳を載せたのであろう。それゆえに小山書店から『詩学叙説』が出されたのは、この『四季』同人と小山書店とのつながりによるものと思われる。

 私見によれば、河盛にとって『四季』との関係は翻訳者としてばかりでなく、出版企画者や編集者としての役割を深めていったようにも思われる。彼は昭和三年から五年にかけてフランスに留学し、四年にプレヴォー『マノン・レスコー』(岩波文庫)、七年にジャン・コクトオ『山師トマ』(春陽堂)、翌年に『フランス詩第一歩』を刊行している。それとともに『詩学叙説』の河盛の「はしがき」として、「この翻訳は、先頃締結された日本文芸家協会とフランス文芸家協会との間の紳士協定に基いて、翻訳権を獲得した」とあるのは、彼がそのような仕事にも関わっていたことを意味していよう。

マノン・レスコー

 これらは第一次『四季』の時期だし、その一方で、昭和六年に河盛は立教大学予科教授となり、十八年まで勤めた後、その年の四月から十二月にかけて、日本出版会文芸課長に就任している。日本出版会とは、戦時下の出版新体制運動としての一元的出版団体の日本出版文化協会の後身である。昭和十八年に設立され、戦時下の出版物の、紙も含めた計画配給を司っていたことからすれば、その学芸課長としての位置は、出版についての裁量を任されていたと考えられる。

それに同年には本連載でお馴染みの生活社から『ふらんす手帖』を出していることも、そうした事情をうかがわせるし、戦時下の外国文学出版にあたって、河盛の尽力が大きく作用していたのではないだろうか。そればかりでなく、河盛は『フランス語盛衰記』(日経新聞社)の中で、日本出版会への勤務が辰野隆を通じてのものだと語っている。そのために、戦時下におけるフランス文学の出版も可能だったように思える。

フランス語盛衰記

そして河盛が戦後の昭和二十年十二月には新潮社に入社し、『新潮』の編集に携わっているのも、『四季』から始まり、日本出版会学芸課長へと至ったプロセスと無縁でなかったと考えられる。その『四季』の第一、二次は日本近代文学館から復刻が出ているようなので、それらをいずれ見てみたい。

ちなみに本連載でしばしば参照してきた『新潮社七十年』は河盛の手になるものであることを付記しておこう。
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古本夜話810 フランス『舞姫タイス』と林達夫『文芸復興』

 前回の全集の中にもあったアナトール・フランスの『舞姫タイス』は次のような物語である。
f:id:OdaMitsuo:20180730143240j:plain:h120(『舞姫タイス』、白水社)

 この長編小説は四世紀のアレクサンドリアが栄えた時代を背景としている。原始キリスト教の苦行僧たちの若き指導者パフニュスは世俗生活の頃に見た舞姫タイスを思い出す。そして彼女を悪の生活から清めようとして、アレクサンドリアに向かい、ようやく説得して尼僧院に入れる。だがその時から彼はタイスの魅力に取りつかれ、それを忘れるために苦行に励み、その名は高まるけれど、悩みは募るばかりであった。そこにタイスが死にかけているという知らせが届き、かけつけると、彼女は信仰のうちに平安な死を迎えようとしていた。そこでパフニュスは叫ぶ。死んではならない。神も天国もつまらない、地上の生命と生あるものの恋だけが真実だと。その彼のわめき立てる形相を見て、尼僧たちは「吸血鬼!」と叫び、逃げ散ってしまう。

 この『舞姫タイス』はフランスの懐疑主義が最も鮮烈に表出した作品とされ、そこにこめられたアイロニーと哀れみを通じ、悲劇を同時に喜劇ともならしめている。そのトラジコメディの進行に寄り添うように、ナイル河や砂漠の風景が描かれるとともに、タイスの美しさとそれが衰えていくことを恐れる心理、アレクサンドリアの哲学者たちの議論などが書きこまれ、フランスの全貌を示す代表作ともされ、オペラ化されてもいる。この『舞姫タイス』に関する一編を書いたのは林達夫で、彼はその「『タイス』の饗宴」を、昭和八年に小山書店から上梓した『文芸復興』に収録している。
f:id:OdaMitsuo:20180730170818j:plain:h120(『文芸復興』、小山書店版)文芸復興 (中公文庫版)

 私が所持するのはその小山書店版ではなく、戦後の二十二年の角川書店版である。林はその「あとがき」で、ブルクハルトが自分に与えた影響を語り、その『イタリアにおけるルネサンスの文化』と『チチェローネ』が「啓示の書」「愛読の書」だったと述べた後、「私を文学的に育ててくれた、そしてその人の影響もこの書物のなかに消し難い痕跡をのこしてゐる私の文学の教師アナトール・フランスに対する同じおもひと共に……」と結んでいる。つまりここで林は『文芸復興』という一冊が、ブルクハルトとフランスンの大いなる影響の下に書かれたと告白しているのである。

 それならば、「哲学的文学について」とのサブタイトルが付された「『タイス』の饗宴」とはどのような一編なのか、それを読んでみよう。それはフランスの古本屋に関するエピソードから始まっている。フランスは夫人と食事がてらにセーヌ河岸の古本屋に立ち寄り、そこで古本をあさっていて、一フランの均一本の中に『タイス』の初版を見つけ、「豚に真珠を与へるとは」とフランスは慨嘆した。「その初版の『タイス』には曾て彼自身の手で誰かに献著して書かれた文字がご丁寧に消されてあつた」ばかりでなく、ページがギリシアの哲学者たちの議論に当たる「饗宴」の前までしか切られておらず、ここで「食欲」をなくしたとわかったからだ。

 だが夫人はいう。その人はあなたの「料理」が好きではないし、とりわけ「饗宴」は「デリケートな胃袋」「食通」のために作られているんですもの。それに対して、フランスはここだけの話だが、「饗宴」は「プロシャールのだよ!」と返している。

 林はこのエピソードの出典がブルッソンのAnatole France en pantoufles (『普段着のアナトール・フランス』)だとし、『タイス』が「霊肉の闘争を描いた近代文学中で最も皮肉な『哲学的コント』」、その圧巻が「饗宴」であると見なされているのに、ここでそれがプロシャールだと告白しているのだと。さらに林はこれを読み、フランスが『文学生活』(朝倉季雄他訳、白水社、昭和十二年)の中で、プロシャールの名著『ギリシア懐疑学派』を推奨し、その後で「自分の最近発表した小説の中には若しプロシャールのこの書を読まなかったら書かなかった数十ページがある」と書いていたことを思い出した。そしてそのプロシャールの「哲学種」が「饗宴」という「最も甘美な御馳走にかはつたこと」は、フランスが「並々ならぬ腕前を持つた哲学的料理人」だったことの証明となる。またその注で、プロシャールの『プラトン哲学に於ける生成』(河野与一訳、岩波書店)の刊行が付記されている。

 それから林はその「哲学料理の元祖」がプラトンで、その他ならぬ『饗宴』に言及し、そこにギリシアの思想家、政治家の精神的遺産を集積することで、「彼の時代の精神的生活の総決算を企てた」と論じるに至る。そしてこれは私見だが、『文芸復興』の最初に置かれた「『みやびなる宴』」へとリンクしていくのであろう。林はここで章タイトルのFêtes Galantesと題されたワトーの絵画、ヴェルレーヌの詩、ドビュッシーの音楽という三つを論じていくが、これも他ならぬ「饗宴」という殊になろう。それゆえに『タイス』は四つ目の「饗宴」としてあったと考えられる。

 なお『タイス』は水野成夫訳『舞姫タイス』の他に、岡野馨訳『女優タイス』(新潮文庫、昭和十三年)などが刊行されている。

舞姫タイス(水野成夫訳、白水社)舞姫タイス (岡野馨訳、角川文庫)


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古本夜話809 『アナトオル・フランス長篇小説全集』と『小さなピエール』

 やはり昭和十年代後半に白水社から、『アナトオル・フランス長篇小説全集』が刊行されている。これは昭和十四年からの、同じく『アナトオル・フランス短篇小説全集』が全七巻の完結に続く企画で、全十七巻予定だったが、十冊が出されただけで中絶し、全巻の刊行は戦後の昭和二十五年を待たなければならなかった。戦前刊行の十冊を、『白水社80年の歩み』から挙げてみる。左の数字はその巻数である。

アナトオル・フランス長篇小説全集 (『アナトオル・フランス長篇小説全集』第1巻、戦後版)
アナトオル・フランス短篇小説全集 (『アナトオル・フランス短篇小説全集』、戦後版)

1『シルヴェストル・ボナールの罪』 (伊吹武彦訳)
2『鳥料理レエヌ・ペドオク亭』 (朝倉季雄訳)
3『現代史Ⅰ』 (水野成夫訳)
4『現代史Ⅱ』 (大岩誠訳)
5『現代史Ⅲ』 (杉捷夫訳)
8『舞姫タイス』 (水野成夫訳)
10『ジャン・セルヴィヤンの願ひ』 (大塚幸男訳)
14『ペンギンの島』 (水野成夫訳)
16『小さなピエール』 (岡田真吉訳)
17『花ざかりの頃』 (大井征訳)

この際だから、戦後刊行の残りの巻も示しておこう。

6『現代史Ⅳ』 (川口篤訳)
7『神々は渇く』 (水野成夫訳)
9『ジェロム・コワニャールの意見』 (市原豊太訳)
11『白き石の上にて』 (権守操一訳)
12『『赤い百合』 (小林正訳)
13『楽屋裏の話』 (根津憲三訳)
15『天使の反逆』 (川口篤訳)

 このように挙げてみると、読んでいるのは1の『シルヴェストル・ボナールの罪』と7の『神々は渇く』の二冊だけであることに気づく。それを考えても、私たちのような戦後生まれの世代にとって、すでにアナトオル・フランスの人気は失われていたのである。その事実は前回のブールジェにしても、また次回にふれるルナアルにしても、同様だったと思われる。

 しかし辰野隆の『仏蘭西文学』『吉江喬松全集』においても、アナトオル・フランスはそれぞれ長い一章が割かれ、昭和戦前のフランスの確固たるポジションを伝えているし、柳田国男がその愛読者だったことも知っている。それは戦時下に大学生だった中井英夫のような世代まで継続され、昭和六十年代になって、彼が白水社にこの全集の復刻を提案したことも仄聞している。

f:id:OdaMitsuo:20180616084750j:plain:h120(『仏蘭西文学』上、昭和十八年初版)吉江喬松全集

 それはフランスがパリのセーヌ河畔の古書店の息子として生まれ、ルーブル美術館やノートルダム大聖堂に囲まれた環境の中で育ち、広範な教養に基づく洗練された文体で、すべての独断決定論からの脱却、及び政府、社会、教会制度に対する批判者を志向していたことによっている。そのことは『シルヴェストル・ボナールの罪』や『神々は渇く』からもうかがわれる。またその一方で、上院図書館の司書ともなっている。そして都会人として古典文学に向かったことから、ヴェルレーヌやマラルメの象徴主義やゾラなどの自然主義には批判的だった。それでもドレフュス事件ではゾラの味方についた。それゆえに十九世紀末から二十世紀初頭にかけての代表的文人と見なされ、一九二一年、つまり大正十年にはノーベル賞を受賞し、二四年の死に際しては国葬となっている。同時代の日本におけるフランスの流行も、そのようなフランスのトレンドの反映であったにちがいないし、それを受けて、短編や長編の全集も企画されたのである。

 入手しているのは16の『小さなピエール』だけだが、訳者は映画評論家の岡田真吉で、「訳者序」によれば、それはフランスの晩年の「自伝的小説ともいふべきもの」で、この後に続くのは『花咲ける人生』だけだと述べられている。これは17の『花ざかりの頃』のことであろう。それはともかく、この『小さなピエール』におけるもっとも印象的なシーンを引いておこう。それはパリの風景や出来事ではなく、ピエールが初めて見た海に関してだ。

 私が、初めて海を見た時、海は、それを眺め、それを呼吸して私の感じた巨大な悲しみの存在によつて初めて私には広大なやうに思へた。それは、荒れた海だつた。私達は、ブルタアニュの小村への夏の一月を過しに行つたのである。海岸の光景が、私の記憶の中に、銅板彫刻のやうに刻み込まれた。沖から吹いてくる風に鞭打たれ、低く垂れた空の下に、平胆で何も生えて居ない大地に向つてその曲つた幹や貧弱な枝を差し出して居る一並びの樹々の姿が彫み込まれた。その光景が、私の胸に喰い込んだ。私の心の中には、今でも比べるもののない不運の象徴のやうなものが残つて居る。

 ここにはパリで育った人々が初めてブルターニュの海を見た時の共通する印象が描かれているように思われる。それは南仏の光あふれるバカンスの海とは異なる北仏の風景なのだ。私は思わずユグナンの『荒れた海辺』(荒木亨訳、筑摩書房)という小説のタイトルを想起してしまった。ひょっとするとユグナンも、この『小さなピエール』のこのシーン、「カスリンとマリエーヌ」と題されたこの章を読んでいたのかもしれない。
荒れた海辺

 ところで話は変わってしまうけれど、この『小さなピエール』に関する出版事情も書いておかなければならない。これは昭和十七年十月に発行されているわけだが、初版部数は五千部とある。大東亜戦争の進行下において、書店も統合され、一万六千店から一万二千店へと減少しつつある状況だった。もちろん外地書店があったにしても、二重の意味でのフランス文学書の五千部は、どのように取次を経由し、流通販売され、読者の手元へと届いていたのだろうか。これも繰り返し述べているように、戦時下の出版の謎というしかない。


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古本夜話808 太宰施門『ブゥルジェ前後』と髙桐書院

 本連載799の辰野隆『仏蘭西文学』と同様に、太宰施門の『ブゥルジェ前後』も、戦前からの企画が戦後になって実際に刊行に至ったと考えられる。「序」の日付は昭和二十一年三月、発行は八月で、版元は発行者を馬場新二とする髙桐書院、住所は京都市中京区麩屋町通とある。残念ながら『京都出版史』(書協京都支部)には出版社も発行者名も見当たらないことからすれば、戦後を迎え、澎湃として起こった新興出版社のひとつであり、それもその後、必然的に消えるしかなかった多くの文芸書版元と見なしていいだろう。

f:id:OdaMitsuo:20180716164920j:plain:h120(『ブゥルジェ前後』)
 著者の太宰は本連載791の『バルザック全集』の「人間戯曲総序」や『幻滅』の訳者で、同792のクルティウスの『バルザック論』の校閲者として、その名前を見てきたが、『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。
f:id:OdaMitsuo:20180515120726j:plain:h110(『バルザック全集』)

 太宰施門 だざいしもん 明治二二・四~昭和四九・一・一一(1889~1974)仏文学者。岡山県生れ。大正二年東大仏文科卒。九年二月から一二年二月まで仏蘭西留学。大正一〇年、京大文学部助教授。仏文科を創設。昭和六年九月バルザック研究にて文学博士。八年教授。二四年五月定年退職。京大名誉教授。わが国仏文学界の草分けで、はじめて『仏蘭西文学史』(大正六、玄黄社)を書いた。主著『バルザック』(昭和二四、甲文社)。

 この立項から、太宰が京大における辰野隆のような立場にあったとわかる。
 『ブゥルジェ前後』の「序」を読むと、立項に示されている以外の著作が挙げられている。それらは『ルソーよりバルザックへ』『バルザック研究』『バルザック以後』で、十八世紀後半から十九世紀前半にかけてのロマン主義、それに続くレアリスムと自然主義の時代の一八八五年ごろまでのフランス小説史をたどったもので、ほぼブゥルジェのところまで達したとされる。

 そして『ブゥルジェ前後』は「ブゥルジェの諸作を中心に置き、なおそれを出来るだけ明確にし得るやうな周囲前後のいろいろの条件、当代の人心に最も影響の大きかつた数かずのものを適宜その場で述べて行つた」著作というコンセプトが述べられている。しかし現在ではこのブゥルジェがもはや忘れられた存在と考えられるし、その翻訳も絶版になっているので、『増補改訂新潮世界文学辞典』を参照し、紹介しておこう。ただしここではそこでの表記であるブールジェを使用する。

増補改訂新潮世界文学辞典

 ブールジェは一八五二年に北仏のアミヤンに生まれ、最初は高踏派の詩人として知られていたが、『現代心理論叢』で同時代の作家たちのペシミズムを分析し、そこからの脱出を試みた。その心理開明の方法を小説に適用し、『残酷な謎』を書き、続いて唯物論の危険、及び作家や思想家の教師としての倫理的責任を問う問題作『弟子』を上梓する。

 この主人公シクストはテーヌやルナンをモデルとする徹底的な実証主義者で、人間については生理の存在しか認めず、心理を問題とすることは愚だと教える。その弟子グレルーは師の教えを信奉し、家庭教師をしている家の令嬢シャーロットを実験のために誘惑し、心中を約束させる。だが彼女はグレルーの日記を読み、その本心を知り、自殺する。グレルーも彼女の兄にすべてを告白した後、殺されてしまう。シクストは弟子の通夜で、自分の非を悟り、長い間捨てていた祈りを口ずさむ。

 このようにストーリーを紹介してきて、これも半世紀前に読んでいたことを思い出し、探してみると出てきた。それは河出書房の山内義雄訳『弟子』(『世界文学全集』19所収、昭和三十一年)だった。ブールジェは実証主義的風土の中で育ったが、この『弟子』によって、伝統的権威、宗教、社会秩序への尊重へと向かい、王党的、カトリック的な立場へとシフトし、ドレフュス事件では反ドレフュス派に組みしたとされる。
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 太宰も『ブゥルジェ前後』において、ルナンとテーヌから始め、第三共和制とアナトール・フランスの位相を論じ、それから『弟子』を中心とする本格的なブゥルジェ論を展開していく。つまり太宰は先述したようなブゥルジェに寄り添っているのだし、それが戦後を迎えても変わらなかったといえる。現在ではもはや誰も語らないけれど、ブゥルジェの翻訳もかなり出されていて、国立国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』を調べてみると、前述の『現代心理論叢』は『近代心理論集』(平岡昇訳、弘文堂、昭和十五年)、『残酷な謎』は『傷ましい謎』(田辺貞之助訳、春陽堂、同)などとして翻訳されている。また東京堂から出された広瀬哲士訳『死』に関しては、斎藤瀏の『獄中の記』と並んで、昭和十三年のベストセラーになったことを本連載761で既述したとおりだ。また『弟子』も、山内訳はすでに昭和十二年に白水社、同十六年には内藤濯訳の岩波文庫も刊行されていて、それこそ昭和十年代前半が、日本におけるブゥルジェの時代だったことを教えてくれる。
 f:id:OdaMitsuo:20180213151634j:plain:h112 f:id:OdaMitsuo:20180212162553j:plain:h120 弟子 (白水社版)弟子 (岩波文庫復刻)


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古本夜話807 金尾文淵堂と徳富健次郎・愛『日本から日本へ』

 吉江孤雁や国木田独歩の著書を出した如山堂や隆文館が、金尾文淵堂や文録堂と並んで、春陽堂以後の「美本組」だったという小川菊松の『出版興亡五十年』の証言を、本連載801で紹介しておいた。私は小川菊松のいうところの「美本組」出版社にはあまり関心がないというか、むしろ門外漢といっていいので、これまでそれらにはほとんどふれてこなかった。 それでもかつて一度だけ「金尾文淵堂について」(『古本探究Ⅲ』所収)を書いているが、それは「美本」とはいえない望月信享の『大乗起信論講述』をめぐってであった。

出版興亡五十年 古本探究3

  同書の著者の望月は、金尾文淵堂から刊行予定だった予約出版の『仏教大辞典』の編纂者だった。しかしこの辞典は刊行が送れ、資金ショートに至り、金尾文淵堂は明治四十一年に倒産してしまう。その後どのような事情と経緯ゆえか、再起した金尾文淵堂からこの一冊が大正十一年に出され、それは高橋輝次『古本が古本を呼ぶ』(青弓社)や石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』(新宿書房)の「金尾文淵堂刊行書目」にも掲載されていなかったからだ。

古本が古本を呼ぶ (『古本が古本を呼ぶ』) 金尾文淵堂をめぐる人びと

 だがその後、まったく偶然ながら、金尾文淵堂のとりわけ美本とはいえないけれど、よく知られた二冊を入手しているので、この機会にその『日本から日本へ』にふれておこう。ただ同書のことは私があらためて説明するよりも、石塚の著書から引くべきだろう。その第四章「原稿を求めて―徳富蘆花との二〇年」の中で書影入りの紹介がなされ、「『日本から日本へ』の完成と結末」という一節があり、そこに次のように描かれているからだ。

 そしていよいよ大正一〇年三月八日に、徳富健次郎・愛共著で、「東の巻」および「西の巻」の二部仕立て、通巻一四五四ページの本が完成する。A5判の天地左右を少し切った縦長の判型で、本文横組み、角背・紫の羽二重クロース装・箔押し、天金で小口と地は機械裁断ではなくアンカットふう、函入り、定価は各五円という豪華本だった。本文は六号活字で普通より小さく、行間は全角どり、余白がたっぷりとってあるので、文字は小さいが決して読みにくくはない。膨大な原稿量を収めるために金尾が考えた苦心の体裁である。随所に写真版、カラー木版も挿入されている。

f:id:OdaMitsuo:20180712142943j:plain:h115(西の巻)

 これを少しばかり補足すると、函は黄色で、そこに蘆花の自筆と思われる黒字のタイトルと著者名が記されているが、それ以外はまさにそのとおりである。

 蘆花夫妻は大正八年一月に、一年間にわたる世界一周の旅に出た。それは『日本から日本へ』の「東の巻」の冒頭に記されているように、前年の紀元節の天明として、五十一歳の徳富健次郎と四十五歳の妻あいが「卒然としてアダム・イヴの自覚に眼ざめた」こと、また四年に及んだ「対独世界戦が、ばったり止務だ」ことによっている。その旅は横浜港からの大阪商船会社のぼるねお丸による出立であり、そこにその貨船写真も見ることができるし、「ぼるねお丸」という一章も置かれている。

 船は長崎を過ぎ、支那、安南、馬来半島などを経て、印度洋に向かい、三月に坡西土に着き、そこで夫妻はぼるねお丸から降りる。そしてエジプト、エルサレム、ヨルダン、ナザレを経て、イタリアに入り、ローマやフィレンツェ、それからパリ、スイス、ドイツ、ベルギー、イギリスを訪れ、日本へと戻ったのは一年二ヶ月後の大正九年三月のことだった。その克明な記録が『日本から日本へ』の二巻、一四五四ページにつづられ、金尾文淵堂の金尾種次郎の手によって、送り出されたのである。

 その出版に至るエピソードは伊藤整の『日本文壇史』(講談社文庫)や中野好夫の『蘆花徳富健次郎』(筑摩書房)にも語られているように、『日本から日本へ』には記されていないけれど、金尾が神戸からぼるねお丸に乗り、門司まで同船して出版許可を得たとされる。しかしこの「手の込んだ造本」は時間がかかり、奥付では版を重ねているようによそおっているが、石塚は蘆花の書簡証言を引き、読売新聞の二万五千部出ているというのは金尾の吹聴で、「東の巻が地方七千余、東京三千八百」としている。確かに手元にある>「西の巻」は大正十年三月八日初版、四月二十日第二十版となっているが、定価五円は高すぎるし、蘆花の人気は明治三十年代が全盛だっただろう。夫妻の共著としての世界一周記は、読者にとってもポピュラーな人気を得るものではなかったと思われる。

日本文壇史 蘆花徳富健次郎(『蘆花徳富健次郎』)

 それに関して、石塚は「初版二万部だったが返品の山となりぞっき本として古本市場にはんらんした」という大谷晃一の言葉を引き、一年後の読売新聞に大特価三円五〇銭の広告が出されたことにも触れている。その最大の敗因として、蘆花の外遊資金の拠出、製作費や宣伝費への先行投資により、高定価をつけざるをえなかったことを挙げている。私もそれに同感であるし、昭和円本時代を前にして、二冊で十円は高定価だったと見なすしかない。

 なお蘆花に関しては本連載284で、金尾文淵堂と並んで言及されている福永書店との関係にふれ、また蘆花の『自然と人生』『みみずのたはこと』については、拙稿「東京が日々攻め寄せる」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)を書いていることを付記しておこう。

 郊外の果てへの旅

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