出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1061 『新選名作集』と『新選前田河広一郎集』

 昭和時代に入ってからの新潮社のいくつかの文学全集を見てきたが、ライバル視されていた改造社のほうはどうだったのだろうか。ただ新潮社と異なり、改造社は社史も全出版目録も刊行していないので、これまでそれらをたどってこなかった。だが最近になって、とんぼ書林から、昭和十四年の『改造社図書総目録』を入手したので、円本以後を見てみたい。

 改造社は『現代日本文学全集』に続いて、昭和三年から『新選名作集』の刊行を始めている。これは『日本近代文学大事典』に解題と明細が見出され、四六判、紙装、定価一円として、次のような解題がある。
  f:id:OdaMitsuo:20200413114445j:plain:h110(『現代日本文学全集』)

 改造社の(円本)の姉妹出版として企画されたもの。定価も一円。したがって「円本」の一種とみてよい。しかし改造社の円本に入らなかった作品が多く採られているのが特色。八ポ、二段組み、六〇〇ページ前後、したがってきわめて多くの作品が入っている。ここでは個人全集その他が不十分で、意味ありと思える作家の目次のみを挙げておく。『前田河広一郎集』や『相馬泰三集』などは彼らの作品のほとんどがここに挿入されていて便利。(後略)

 この全四十五巻を数える『新選名作集』明細にはナンバーは振られておらず、また『菊池寛集(続篇)』は未確認を示す★印が付せられている。先の『改造社図書総目録』で確認すると、品切だが、刊行とある。これらは昭和三年に十九冊、四年に十三冊、五年に九冊、六年に二冊、七年に二冊という全集らしからぬ不定期刊行に起因しているのだろう。

 そういえば、この『新選名作集』はこれだけの巻数が出ているにもかかわらず、古本屋でもほとんど目にすることがなく、私にしてもその一冊を入手しているだけだ。それは先の解題にも挙げられていた『新選前田河広一郎集』で、奥付記載は昭和三年三月十六版で、それなりに売れていたと推測できよう。またこの巻は先のリストで収録作品が明示されていたことからわかるように、この時点での個人全集の色彩も強かったと思われる。

 それだけでなく、あらためて確認させられたのは、『現代日本文学全集』において、前田河、岸田国士、横光利一、葉山嘉樹、片岡鉄兵からなる第五十編の『新興文学集』の刊行は昭和四年十月であり、『新選名作集』は円本の『現代日本文学全集』とパラレルに出版されていて、まさに先の解題がいうように「姉妹出版」だったことになる。昭和初期にあって、この五人の組み合わせと彼らが「新興文学者」と見なされていたことも意外であった。しかも彼らは全員が『新選名作集』にも召喚され、前田河にいたっては、『続篇』まで編まれ、それは先の菊池と吉田絃二郎だけなのだ。
f:id:OdaMitsuo:20200721104549j:plain:h120(『新興文学集』)

 前田河には『近代出版史探索Ⅳ』783でふれているけれど、彼のこの時代のポジションを見てみよう。『日本近代文学大事典』の前田河の立項や、紅野敏郎編「前田河広一郎年譜」(『現代日本文学大系』59所収、筑摩書房)を参照すると、前田河は十三年間に及ぶアメリカ生活を打ち切り、大正九年に帰国している。翌年に編集に加わった総合雑誌『中外』に、「三等船客」を発表し、十一年に第一創作集『三等船客』、十二年に『赤い馬車』を、いずれも自然社から刊行する。これらの短編集は未見で、自然社のプロフィルも定かではないが、この版元は新井紀一『燃ゆる反抗』、中西伊之助『死刑囚と其裁判長』、綿貫六助『霊肉を凝視めて』、十一谷義三郎『生物』、松本淳三詩集『二足獣の歌へる』などを出していたようだ。
現代日本文学大系(『現代日本文学大系』59)f:id:OdaMitsuo:20200721162857j:plain

 また十二年には『麵麭』(大阪毎日新聞社)、十三年には『最後に笑ふ者』(越山堂)、『快楽師の群』(聚芳閣)、アメリカ時代に材をとった長篇『大暴風雨時代』(新詩壇社)、『脅威』(新潮社)を続けて刊行する。前田河は帰国後、十二年に『種蒔く人』、十三年に『文芸戦線』のいずれも同人に加わり、プロレタリア文学の論客として、「ブルジョワ文壇」の菊池寛を否定する立場にあったことが、このような小出版社との関係に反映しているのだろう。これらのうちの聚芳閣のことは、拙稿「聚英閣と聚芳閣」(『古本屋散策』所収)で、越山堂については『近代出版史探索』174、『近代出版史探索Ⅱ』267でふれているが、自然社と新詩壇社に関しては不明である。

古本屋散策 近代出版史探索 近代出版史探索Ⅱ

 しかし昭和三年の『新選前田河広一郎集』の二冊に収録された六十編ほどの作品は、『大暴風雨時代』を除くこれらの短編集を出典とするもので、それらの版元は関東大震災前後の出版不況の中で、立ち行かなくなってしまったのではないだろうか。それゆえに作家デビューして、それほど長くない前田河が『新選名作集』で二冊を編むことができたと思われる。つまり改造社にとっても、著作権問題はクリアしていたことを意味していよう。

 ところで前田河の『三等船客』が、同じく船を舞台とする葉山嘉樹『海に生くる人々』(改造社)や小林多喜二『蟹工船』(戦旗社)に与えた影響を考えてみよう。大正十五年刊行の『海に生きる人々』の場合、自然社版『三等船客』を通してで、『新選名作集』は参照されていないけれど、昭和四年発表の『蟹工船』は大いにありうることだと思う。それに同じく『海に生くる人々』も収録の『新選葉山嘉樹集』も同時に発表されていたので、これらの「グランドホテル」ならぬ「グランドシップ」形式の先行する二作の影響が『蟹工船』の中へと流れ込んでいったのではないだろうか。
f:id:OdaMitsuo:20200721162512j:plain:h110(『海に生くる人々』)蟹工船


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古本夜話1060 新潮社『日本文学大辞典』

 改造社の『現代日本文学全集』に先駆けされた新潮社の雪辱戦は、『現代長篇小説全集』や『昭和長篇小説全集』によって果たされたわけではなく、その文芸書出版の面子をかけた起死回生といっていい企画は、昭和七年の『日本文学大辞典』だったと思われる。『新潮社四十年』は「奉仕的大出版」として、そのことを問わず語りに述べている。

f:id:OdaMitsuo:20200413114445j:plain:h110(『現代日本文学全集』)f:id:OdaMitsuo:20200716195213j:plain:h110 (『現代長篇小説全集』)f:id:OdaMitsuo:20200720113608j:plain:h110

 『日本文学大辞典』は我社四十年の歴史に於てその最も誇りとする大出版の一つである。帝大教授藤村作博士これが編輯を主宰し、各大学の教授をはじめとして在野の研究者のすべてを動員し、上古より現在に亙る日本文学、並にこれに相渉る諸項について周到正確の解説を施せるすべて三十六項、四六倍版四段組七号新活字を以てし、上中下三巻に補遺の一巻を併せて四巻。すべて三千五百頁の大著述である。着手せる昭和三年一月より完了せる昭和九年五月に至るまで日を費すこと将に六年有半。執筆者は百五十名に上つてゐる。予定の期限におくるゝこと二十ヶ月、予定の頁数を超えゆること一千頁、従つて編輯費の如きも予定に幾倍するの巨額に上つた。その内容の整備と、その体裁の高雅と、その製本の堅牢と、間然するところなき最上最大の出版として大いに世に迎へれはしたが、勿論、全然犠牲的の出版であつて、多大の損失を忍ばねばならなかつたし、出版までの佐藤社長の努力は、実に言語につくされないものがあつたことを、特筆せねばならぬ。

 実際に『新潮社四十年』所収の「出版おもひ出話」で、佐藤義亮は「『日本文学大辞典』だけは、どうしても一言せずにはゐられない」として、「どうしても国家に無ければならぬもので、而も人の容易にやらうとしない、全くの犠牲的出版」であり、自らも第一巻の校正に一年二ヵ月没頭したと述べている。

 『日本文学大辞典』の企画は藤村作の名前から推測されるように、文学研究アカデミズムの側から出され、各社に持ちこまれたが、「犠牲的の出版」であることは明らかなので、どこも断わったと思われる。それで最終的に新潮社が引き受けることになったのではないだろうか。新潮社は佐藤を始めとして、アカデミズムとの関係は深くなかったが、ここでアカデミズムに貸しをつくり、文芸書出版社としてのひとつの布石を打つという深謀遠慮もあったと考えられよう。

 この初版四巻本は昭和十一年に全七冊の分冊版が出され、戦後の「復興版」として、昭和二十四年から『増補改訂日本文学大辞典』全八巻が刊行に至っている。私が架蔵するのはこの「復興版」だが、藤村による昭和七年の「序」はそのまま再録され、先述した新潮社側の事情と照応する、当時のアカデミズム状況も示されている。そこで昭和における日本的にして国民的なる大創造が語られ、日本文学がその無比の宝庫であり、そのために日本文学辞典の必要性が提起される。
f:id:OdaMitsuo:20200721084156p:plain(『増補改訂日本文学大辞典』)

 まさに日本文学をベースとする昭和におけるベネディクト・アンダーソンがいうところの「想像の共同体」の創造が訴えられている。だがそのような質と量を兼備した辞典は西洋にもほとんどなく、世界の文化圏を通じてまだ完成を見ていない。それは「最近日本文学研究の隆盛は、実に空前のことである」にもかかわらず、日本でも同様なので、「日本文学辞典の刊行が最も望ましい」のだ。そこで東京帝国大学国語・国文学両研究室関係者に諮り、その実現をめざし、「新潮社長佐藤義亮氏に、出版に関する一切のことと、編纂に関する経営上の援助を求めてその快諾を得た」のである。

 さらに藤村は具体的に大学研究室のメンバーの名前も上げているので、それらも引いておこう。顧問は坪内逍遥、上田敏、編輯委員会幹部は橋本進吉、志田義秀、久松潜一、編纂事務主任は城戸甚次郎、その他の主要メンバーは池田亀鑑、笹野堅、岩淵悦太郎、島津久基、守随憲治、筧五百里、西下経一、筑土鈴寛である。

 それに加えて「執筆者氏名リスト」を見ると、興味深いのは大和時代から江戸時代文学までにおいて、多くがこれらの研究者たちに占められていることに対し、「明治・大正・昭和時代文学」は本連載でも言及している人たちの比重が高いことだ。その数は二百人ほどに及び、小説は中村武羅夫や加藤武雄、評論では木村毅や大宅壮一、新体詩は川路柳紅や河井酔茗、俳句は柴田宵曲、国学は森銑三、伝説・民謡は柳田国男、郷土舞踊は小寺融吉、仏教・仏教文学は三井晶史、琉球文学は伊波普猷、演劇は渥美清太郎や楠山正雄、雑誌は斎藤昌三となっている。

 これらの執筆メンバー人の構成から考えても、当初はアカデミズム中心の企画だったものが、新潮社の「佐藤義亮氏が、営利の立場を離れて翼賛協扶され、寝食を忘れ、細心の注意を以て尽力せられたこと」によって、アカデミズムと新潮社のアマルガム的辞典として仕上がったことになろう。

 佐藤によれば、「特別の厚意」をもってコラボレーションしたのは木村毅と柳田泉だったようで、この二人の寄り添いこそは『日本文学大辞典』が円本の総決算のような意味合いを含んでいたことを示唆していよう。


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古本夜話1059 子母澤寛『突つかけ侍』

 前回の『昭和長篇小説全集』の14が子母澤寛の『突つかけ侍』であることを示しておいた。これは『新潮社四十年』が述べているように『現代長篇小説全集』と異なり、「この方は、時代物の大衆小説も加へた」ことによっている。それは明らかに平凡社の『現代大衆文学全集』の影響を受けているであろう。
f:id:OdaMitsuo:20200716195213j:plain:h120 (『現代長篇小説全集』)  f:id:OdaMitsuo:20200717104540j:plain:h120 (『現代大衆文学全集』)

 それらは『昭和長篇小説全集』の場合、時代物の作家として重なるのは子母澤寛の他に、白井喬二『伊達事変』、吉川英二『松のや露八』、長谷川伸『道中女仁義』、野村胡堂『万五郎青春記』、大佛次郎『薩摩飛脚』であり、合わせて六人六作に及んでいる。この全集に関しては前回既述したような事情もあって、これらの時代小説のすべてが未見なのだが、冒頭に子母澤寛の『突つかけ侍』を挙げたのは、たまたま戦後版の『突つかけ侍』を入手しているからだ。ただそれは昭和三十一年に桃源社から刊行された全五巻なので、恐らく『昭和長篇小説全集』版の増補と見なしていいのではないだろうか。

 ずっとそのように思いこんでいたのだけれど、念のために『新潮社四十年』の「新潮社刊行図書年表」を確認してみると、『突つかけ侍』は刊行されておらず、『野火の鴉』に差し替えられていたのである。それは昭和十一年に出されている。また前回挙げた『昭和長篇小説全集』のラインナップもあらためて照合してみた。すると吉屋信子の『一つの肖像』は『双鏡』、加藤武雄『三つの真珠』は『東京哀歌』、大佛次郎『薩摩飛脚』は『異風黒白記』、牧逸馬『大いなる朝』は『双心臓』としての刊行なので、全十六巻のうちの五巻までがタイトル変更となったとわかる。いや作品そのものが差し替えられたと見ていい。そこにはどのような経緯と事情が潜んでいるのだろうか。

 やはりそれは『突つかけ侍』を例とすべきだろう。子母澤については拙稿「大道書房と子母澤寛」(『古本屋散策』所収)などで言及しているが、再びトレースしてみる。彼は東京日日新聞社会部在職中の昭和三年に、子母澤寛のペンネームで、古老の聞書を主とする『新選組始末記』(万里閣、中公文庫)を処女出版し、『笹川の繁蔵』『紋三郎の秀』『国定忠治』『弥太郎笠』などによって、新しい大衆文学の作家として立場を確立した。八年には新聞社を辞め、十五年にわたる記者生活を清算し、九年からは『都新聞』に『突つかけ侍』の連載を始めている。この作品は新たに幕末維新期を舞台とし、旗本や御家人を主人公とするものであった。これはどうしてなのか、真鍋呉夫編『増補大衆文学事典』(青蛙房)には見えていないけれど、『日本近代文学大事典』には立項されているので、それを引いてみる。

f:id:OdaMitsuo:20200720143726j:plain:h110(『突っかけ侍』講談社版)古本屋散策  (『新選組始末記』中公文庫)

 [突つかけ侍]つつかけさむらい 長編小説。「都新聞」昭和九・三・一一~一〇・四。昭和一二・五、新小説社刊。『松村金太郎』『はればれ坊主』と三部作をなし、これまでのやくざ中心の股旅ものに、新しい旗本、御家人くずれ、浪人などの武士があらわれてくる。この点で、子母沢文学の転換点をなす作品だといわれている。この点で長谷川伸の作品を継承し、さらに発展させた一面を形成することになるのである。そして、この旗本、御家人などの武士の姿の中に、祖父梅谷十次郎や古老らの姿がこめられているといえる。

 この解題によれば、『突つかけ侍』は昭和十二年に新小説社から刊行されている。新小説社に関しては、『近代出版史探索Ⅲ』428、472でふれているが、春陽堂の元編集者で、長谷川伸の女婿である島源四郎が設立した出版社である。雑誌『大衆文学』と時代小説を刊行し、装丁や挿絵は小村雪岱が担当していた。それゆえに長谷川との関係もあり、新潮社は『突つかけ侍』を刊行できなくなり、十一年に『野火の鴉』へ差し替えざるをえなかったのであろうし、他の四作にしても、同様の事情が絡んでいたと見なすしかない。
近代出版史探索Ⅲ

 『昭和長篇小説全集』は新聞社や雑誌に連載中の作品を対象にして、作家の内諾だけを受けたかたちで、見切り発車した企画だったのではないだろうか。それが刊行の段になって、各版元の著作権なども絡み、出版の実現が不可能となり、急遽変更せざるを得なかったと考えるしかない。

 中央公論社版『子母澤寛全集』十所収の「年譜」をたどってみると、昭和九年のところに『中外商業』に『野火の鴉』、『都新聞』に『突つかけ侍』『松村金太郎』『はればれ坊主』を連載し、挿絵は小村雪岱とある。また十年には尾上菊太郎主演『突つかけ侍』が映画化されたとの記述も見えるので、それも作用し、新潮社は『野火の鴉』のほうを刊行することを余儀なくされたのであろう。しかしこの「年譜」に目を通すことで、戦後の桃源社版の成立も了解されるように思われた。この五巻本はその表紙に雪岱の挿画が援用され、それはおそらく新小説社に基づいているのであろうし、またその三部作を五巻版仕立てにしたのである。松村金太郎も「はればれ坊主」=碩順も、『突つかけ侍』の主人公、もしくは主要な登場人物だからだ。
 
 そしてこの昭和三十一年の刊行は、『近代出版史探索Ⅲ』269で指摘しておいたように、桃源社が貸本屋取次ともいうべき矢貴書店をも営んでいたことによって、再刊されたと考えられる。これも高野肇『貸本屋、古本屋、高野書店』(「出版人に聞く」8)で明らかなように、この時代には貸本屋は三万店に及んでいたとされる。おそらく貸本屋市場において、時代小説の五巻本は歓迎されたはずだ。この桃源社版はそのような貸本屋と時代小説の蜜月もあったことを思い出させてくれる。

貸本屋、古本屋、高野書店


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古本夜話1058 新潮社『昭和長篇小説全集』と三上於菟吉『街の暴風』

 続けて前々回挙げた『昭和長篇小説全集』も取り上げておこう。まずそのラインナップを示す。

1  菊池寛  『日像月像』
2  白井喬二 『伊達事変』
3  三上於菟吉 『街の暴風』
4  吉川英治 『松のや露八』
5  久米正雄 『男の掟』
6  中村武羅夫 『薔薇色の道』
7  吉屋信子 『一つの肖像』
8  長谷川伸 『道中女仁義』
9  加藤武雄 『三つの真珠』
10  野村胡堂 『万五郎青春記』
11  佐藤紅緑 『絹の泥靴』
12  小島政二郎 『花咲く樹』
13  佐々木邦 『勝ち運負け運』
14  子母澤寛 『突つかけ侍』
15  大佛次郎 『薩摩飛脚』
16  牧逸馬 『大いなる朝』

 f:id:OdaMitsuo:20200719113543j:plain:h110 (第四巻『松のや露八』)

 この全集は古本屋で大揃いを見たこともないし、どうも僅少本に属するようで、「日本の古本屋」でも高い古書価になっている。その理由は私の手元にある一冊からもうかがうことができる。それはその三上於菟吉の『町の暴風』だが、函無しの非常に疲れた一冊で、よく読まれた痕跡が残されている。しかも背に表紙にも『昭和長篇小説全集』とは銘打たれず、それは奥付も同様で、その裏の5の久米正雄『男の掟』の次回配本予告に見えているだけである。

 つまりこの事実は『昭和長篇小説全集』が『新潮社四十年』のいう「所謂通俗小説」のコンセプトに加え、全集というよりも単行本として流通販売されたことを物語っていよう。それに「予定定価一冊・一円二十銭」とあるものの、刊行は昭和九年で、もはや円本時代は終わってもいた。これらの事実はこの全集が大衆文学の単行本と同様にして読まれ、そのことで美本も少なく、古書価も高くなっているのだろう。

 前置きが長くなってしまったが、三上の『街の暴風』にふれてみる。三上に関しては、すでに「夫婦で出版を」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収)や『近代出版史探索Ⅲ』402、435などで、流行作家、翻訳者、出版者のそれぞれに言及し、また長谷川時雨の『女人芸術』のスポンサーだったことも既述しておいた。それでも三上の小説を読むのは久し振りだったけれど、あらためて彼がストーリーテラーであることを確認させられた。『街の暴風』はどこに連載されたのかは不明だが、この刊行時の昭和九年には『朝日新聞』で『雪之丞変化』の連載が始まろうとしていたし、三上の晩年の秀作に位置づけられるかもしれない。そのストーリーを紹介してみる。
文庫、新書の海を泳ぐ 近代出版史探索Ⅲ

 『街の暴風』の主人公山高一郎は円タクの運転手で、深夜の東京を走っていた。彼は二十四歳で、十九歳の弟の二郎とアパート暮らしだった。郷里は埼玉の田舎町だったが、父親が政治道楽で十代続いた家を潰した後、発狂自殺し、母親も続いて病死してしまった。それゆえに中学を卒業するのがやっとで、牛込の工業学校に通わせていた弟だけは世の中に立派に送り出してやりたいというのが兄の望みだった。

 一郎は浜松町のガレージに帰ろうとしていたのだが、山下河岸にさしかかると、横町から黒い影が飛び出し、車を止まらせた。それはステッキを持った青年で、赤坂の待合の山花にいけといい、「すばらしいネタ」を拾ったと上機嫌だった。彼は帝都毎日の社会部にあり、カフェで実業家の梁田と良政会の庫持が密会中との話をつかんだのだ。それを聞き、一郎は激しい憎悪が燃え上がった。良政会は父親が属していた政党で、庫持こそは父親をして全財産を吐き出させ、ついには一家を破産させながら、脱党さえも勧告した張本人だった。その庫持が大財閥の懐刀である梁田と密会し、待合政治に臨んでいるのであり、一郎はそのために山高家の資産の大部分が失われたことを思い出していた。

 記者はカメラを持ち、山花に入っていったが、一郎はその門前に車を止め、彼の帰りを待っていた。すると山花の玄関がざわめき、一人の老紳士が出てきて、自家用車に向かった。そこに刃物を持った凶漢が殺到したのだった。それを見て、一郎は手近にあったネヂ回しをつかみ、車外に飛び出し、老紳士を追いかける凶漢の後頭部に一撃を喰らわした。凶漢は形成不利と見てとり、新道へと逃げていった。

 老紳士は梁田と名乗り、礼をいいながら、明日氷川町の屋敷にくるようにと一郎に伝えた。一郎は思う。

 ――見ろ! あの大財閥のふところ刀、実業界の古むじな、千万分限の梁田正造が、この僕に、何度となく有難うを繰り返したのだぞ! どのやうな権力よりも、もつ魔力があると信じられてゐる黄金魔が、このタキシイの運転手に、心から礼を言つたのだ。僕はあの老人に十分恩をきせてやつた。十中八句、いのちを奪られるか、それとも重傷を負うかの瀬戸際に、しかも政界のばけ物と密会してゐた待合の門口で、この僕が凶刃から助けてやつたのだ。

 このようにして、『街の暴風』という物語の導火線に火がつけられ、兄弟の周辺のすべての人々を巻きこみながら、展開されていくのである。イントロダクションだけで終ってしまったが、ご容赦願いたい。


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古本夜話1057 「泰西名著文庫」と高橋五郎訳『プルターク英雄伝』

 もう一編、前回の佐藤紅緑『愛の順礼』に関連して続けてみたい。それはこれも前回既述しておいたように、予約出版の円本の範となった国民文庫刊行会と鶴田久作が結びついているからでもある。

 『愛の順礼』の主人公浦田六郎は父の再婚の失敗による実家の没落とその死、一族の内紛などを背景として、上京し、苦学する決意を固め、大正二年に日本橋に降り立った。彼は貧しき学生を救おうとする躬行社を訪ね、そこで「猛烈」と仇名される南條と知り合い、車夫となり、明治大学に入った。すでに「東京の下町はもう電車だらけだ、車に乗る人は山の手の人ばかり」で、「坂を恐がつちや車屋が出来やしない」時代を迎えていた。そうした三年の苦学生活の中で、南條と兄弟の如く親密になり、六郎が明治大学の卒業証書を得ると、南條はそれを祝福していう。

 「可(よ)しッ、牛肉を奢つてやる。」
 南條は私を牛肉屋へ伴れ出した、私は南條が其れだけの銭を持つて居たことを不思議に思つた。が翌日私は南條が平素愛読して居たプルターク英雄伝が彼の本棚の中に無くなつたことに気が付いた。

 これは大正三年から四年にかけて出された国民文庫刊行会「泰西名著文庫」版の高橋五郎訳『プルターク英雄伝』菊判全四巻だと思われる。現在ではもはや信じられないかもしれないが、このような新刊に近い古典の翻訳書の古本屋への売却は「牛肉を奢つてやる」ほどの金をもたらしたのである。現在の言葉に代えれば、「牛肉屋」は高級ステーキ店としたほうがふさわしいかもしれないが。
 (泰西名著文庫)

 この「泰西名著文庫」版ではないが、同じく国民文庫刊行会「世界名作大観」版の『プルターク英雄伝』を所持している。こちらは四六判で昭和五年の刊行である。巻頭のアレキサンデル大王とクレオパトラの口絵写真に続くギリシャとその周辺の折込地図は、南條が壁にかけていた、点々たる朱線が蒙古チベットまで及ぶ支那の地図を想起させる。また高橋五郎訳、幸田露伴校並評との明記は、露伴が「概言」と「鼇頭評」を担っているからだが、そこは露伴のことゆえ、『プルターク英雄伝』が「千余年前の古より、盡未来際に亙りて、人類の有する一大光彩たるべきもの」で、「高橋五郎先生これを邦訳して恵を吾が士女に貽る。訳文亦一家の風格あり」との本伝と翻訳に対するオマージュを捧げている。そしてその第一巻第一章ともいうべき「アレキサンデル大王伝」が次のように始まっていく。
 (『プルターク英雄伝』、世界名作大観版)

 今アレキサンデル大王とファサリア戦勝者シーザルの伝とを敍べようとするに当り、予め大方の寛恕を乞はねばならぬのは、飽くまでも雄大な其功業や、極めて豊富な其材料を挙げて、一々に其迹を詳記するの煩を避け、寧ろ要を摘んで梗概を語るに止めようと思ふことである。余の目的は歴史を書くよりも、伝記を綴るにあるので、勢ひ爾せざるを得ないのである。

 この高橋五郎の名前は国民文庫刊行会の前身の玄黄社の主たる翻訳者として覚えていたし、それらは『セネカ論説集』『ベーコン論説集』『エピクテタス遺訓』、エマーソン『処世論』、ラロシフコー『寸鉄』、アウレリアス皇帝の『瞑想録』などが挙げられる。それに加えて、高橋は『日本近代文学大事典』に半ページに及ぶ立項があり、翻訳家としてはかなり長いので、それを抽出し、たどってみる。
(『ベーコン論説集』)

 彼は安政三年、越後国柏崎の代々庄屋に生れ、明治初年に出郷し、漢学、国学、仏書を学んだ後、洋学修行を志して上京する。それから緒方塾に入り、植村正久を知り、その紹介で宣教師ブラウンの学僕となり、英仏独語を修得した。十三年に『神道新論』『仏道新論』を刊行し、『六合雑誌』や『国民之友』が創刊されると、それらの寄稿者として活躍し、評論家としての名前を上げた。その一方で、明治二十年から『漢英対照いろは辞典』全四冊を刊行し、当時の辞書界に新風を吹きこんだとされる。

 しかし明治二十六年に内村鑑三不敬事件に端を発し、井上哲次郎が『教育と宗教との衝突』を発表し、国家主義の立場からキリスト教を排撃したので、後に『排偽哲学論』(民友社、明治二十六年)にまとめられる反論を『国民之友』に発表する。それを機として『国民之友』と関係を断ち、時評家を廃業し、国民英学会の教師を長きにわたって務め、そのかたわらで翻訳に力を入れるようになる。

 実は鶴田も国民英学会で学んでいて、博文館を経て、明治三十八年に玄黄社を創業していることからすれば、国民英学会を通じて、高橋と鶴田は結びつき、玄黄社が設立され、高橋の翻訳と併走するように出版活動が展開されていったと考えられる。そうした二人のコラボレーションによって、『プルターク英雄伝』も含まれる「泰西名著文庫」や「世界名作大観」への企画出版へと進んでいったのであろう。

 高橋は昭和十年に鬼籍に入っている。ただ晩年になって高橋は、心霊学の研究にふけったとされているが、すでに玄黄社時代にもデゼルチス『心霊学講話』を翻訳刊行しているので、心霊学への関心は早くから生じ、それが晩年になってさらに昂じたというべきであろう。


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