出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1505 萩原朔太郎『青猫』と新潮社「現代詩人叢書」

 萩原朔太郎も昭和三年に第一書房から新菊判、総革金泥装の『萩原朔太郎詩集』を刊行している。これは前々回にふれた大正末の『上田敏詩集』や堀口大学訳『月下の一群』などの第一書房ならではの特装本で、萩原の『月に吠える』に始まる詩集の集成だった。それをきっかけとして、萩原は第一書房から『氷島』という詩集だけでなく、『詩の原理』『虚妄の正義』などの評論やアフォリズム集を刊行し続けていくことになる。大正時代には新潮社から詩集『青猫』や『純情小曲集』を上梓していたので、第一書房へと版元を移したといっていい。そこに至る詩集出版の系譜と変容を見てみたい。

  堀口大学訳 月下の一群 1926年(大正15年)第一書房刊 函入り、背金箔押し革装、天金    
 (新潮社版)

 萩原の『月に吠える』『青猫』も日本近代文学館によって複刻されている。大正六年刊行の萩原の処女詩集『月に吠える』が発行人を室生照道=犀星、発行所を感情詩社と白日社出版部とする定価九十銭を五百部、自費出版だったのに対し、第二詩集『青猫』は十二年に新潮社から定価二円で出され、奥付の検印からわかるように、印税収入をもたらしたことになる。ちなみにその前年にはアルスから『月に吠える』の再版が刊行になっている。

月に吠える―詩集 復元版 (1965年)(『月に吠える』、複刻) (複刻) (感情詩社版)(アルス版)

 こうした大正中期から後期にかけての詩に関する出版市場の変容は、『新潮社四十年』にも述べられているように、『日本詩集』と「現代詩人叢書」の刊行も大きく影響していると思われる。そうした事情は『新潮社七十年』にも見えているし、『近代出版史探索Ⅵ』1052でもふれているが、『新潮社四十年』のほうが簡潔なので、こちらを引いてみる。

   

 我が社の出版は文芸の各分野に亙つてゐるが、日本詩話会が詩壇の諸家によつて結成せらるゝや、その会の為に年刊「日本詩集」を刊行し大正八年より十五年に至つた。更にまた、「現代詩人叢書」を刊行し、第一編野口米次郎氏の「沈黙の血汐」以下二十巻に及んだ。又、詩話会編纂の雑誌「日本詩人」の刊行も引受けて、多少とも詩壇の興隆に貢献し得たと信じてゐる。

 これを少しばかり補足すれば、大正六年に川路柳紅と山宮允が主唱者となり、それぞれの詩誌によっていた詩人たちに呼びかけ、詩人憩談会が催され、それを母体として詩話会が設立された。そして第一集『日本詩集1919版』が出され、十年月刊『日本詩人』も創刊に至る。この時期における内紛には立ち入らないけれど、手元にある十二年刊行の『日本詩集1923版』の巻末を確認すると、その会員は朔太郎を始めとして三十七人に及んでいる。そこには十一項目の「詩話会規則」も掲載され、詩話会事務所を「牛込区矢来町新潮社内に置く」とあり、また「詩話会は日本詩壇の興隆を期し、檀人相互の交情を温め、檀の進歩発達を庶幾する団体」との一節も記されている。

 

 こうした新潮社と詩話会のコラボレーションによって、大正時代における詩はそれまでと異なる新たな出版の一分野として確立されていったように思えるし、その流れに寄り添っていた代表的詩人が朔太郎だったのではないだろうか。それを象徴するように、十二年の『青猫』に続き、同じく新潮社から同年に『蝶を夢む』、十四年に『純情小曲集』が刊行となる。『蝶を夢む』は「現代詩人叢書」の一冊としてで、これは『泰西名詩選集』と並んで、新潮社と詩話会の蜜月を物語るシリーズとみなせるので、その明細を示す。

1 野口米次郎 『沈黙の血汐』
2 西條八十 『蝋人形』
3 川路柳紅 『預言』
4 室生犀星 『田舎の花』
5 佐藤惣之助 『季節の馬車』
6 三木露風 『青き樹かげ』
7 千家元麿 『炎天』
8 生田春月 『澄める青空』
9 百田宗治 『風車』
10 日夏耿之介 『古風な月』
11 白鳥省吾 『愛慕』
12 野口雨情 『沙上の夢』
13 堀口大学 『遠き薔薇』
14 萩原朔太郎 『蝶を夢む』
15 福田正夫 『耕人の手』
16 王富汪洋 『世界の民衆に』
17 深尾須磨子 『斑猫』
18 大藤治郎 『西欧を行く』
19 多田不二 『夜の一部』
20 金子光晴 『水の流浪』

 (『蝶を夢む』) (『水の流浪』)

 この菊半截判、一六〇ページ前後の叢書は14の『蝶を夢む』を『萩原朔太郎』(「新潮日本文学アルバム」)でカラー書影を見ているだけで、入手に至っていないし、古本屋で見た記憶もない。だがこのラインナップから「現代詩壇の精華を集むる新叢書」と謳われていたことが了承されるし、20の金子の『水の流浪』は彼が『日本詩人』の編集に携わっていたことも関係しているのだろう。これらの刊行は大正十一年から十五年にかけてで、その十五年十月には、九年間にわたって存続してきた詩話会は権威団体の弊害が生じたとして解散声明が出され、『日本詩集』『日本詩人』も廃刊となっている。

萩原朔太郎 新潮日本文学アルバム〈15〉

 そのような大正時代における新潮社と詩話会の出版を考えてみると、朔太郎が『青猫』の「序」において、「詩はただ私への『悲しき慰安』にすぎない」としながらも、それに続けて書いた一文を想起してしまう。朔太郎はいっている。

 詩はいつも時流の先導に立つて、来るべき世紀の感情を最も鋭敏に蝕知するものである。されば詩集の真の評価は、すくなくとも出版後五年、十年を経て決せらるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。即ち詩は、発表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遅きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時代の浅薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能はないことである。

 だが「現代詩人叢書」の刊行に示されているように、新潮社の後援を得て、詩集の評価はリアルタイムで届くような出版状況を迎えつつあったのではないだろうか。それは戦後になっても続いていたけれど、私見によれば、昭和で終わってしまったように思われる。


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古本夜話1504 竹内てるよ『美しき朝』、神谷暢、渓文社『近代学校』

 前回を書いた後、またしても浜松の時代舎で竹内てるよのエッセイや日記も併録した詩集『美しき朝』を見つけたのである。B6判並製ながら、小倉遊亀による装幀は竹内も謝辞をしたためているように、鮮やかな紅椿が描かれ、戦時下の一冊とは思われない。版元は明治美術研究所で、昭和十八年四月初版、六月再版六千部、定価二円三十銭とあり、初版と合わせれば、刊行部数は一万部を超えているのではないだろうか。

(『美しき朝』)

 竹内はその「跋」で、『美しき朝』は『静かなる愛』『生命の歌』(いずれも第一書房)に続くものであり、「この集をみていたゞきますことは、わたしのよろこびとするところのもの」と記している。先のふたつの詩集は未見だが、アナキズム系詩人として出発した彼女が、すでに平明な人生的詩風 へと移行したことを示唆している。それは『美しき朝』の「序」の「生きたるは 一つの責務/正しく死せむための 一つの証(あかし)/正しき死にあつてのみ/いかにして いのちを惜しまむ」という詩句にも明らかだ。

 

 そうした詩の変化を通じて、竹内は初版、重版合わせれば、一万部以上が売れるという人気のある女性詩人となっていったように思われる。竹内自身にしても、その「跋」で「各地からお手紙を下さる方々に」、日常生活の報告をしているし、私が入手した一冊の巻末に、「昭和十八年八月求む」と女性の署名があったことも、竹内と読者のコレスポンダンス をうかがわせている。

 そこで気になるのは竹内の出発点とターニングポイントに関してである。前回既述しておいたように、彼女は草野心平の『銅鑼』や秋山清の『弾道』などにアナキスチックな詩を発表し、昭和三年から九年までアナキズム思想をベースとする渓文社を設立している。そのパートナーは神谷暢である。彼は『日本アナキズム運動人名事典』に立項が見出せるし、渓文社の出版物も挙げられているので、渓文社の概要と出版物も挙げてみる。

日本アナキズム運動人名事典

 神谷は明治三十八年東京生まれで、竹内と同じく『銅鑼』などに詩を発表し、アナキズム出版社として渓文社を設立し、竹内の処女詩集の増補再版『叛く』などを刊行していく。彼は無産派の川崎市会議員の経営する川崎新聞社で印刷技術を習得し、詩人仲間が寄付した極小の印刷機と一字ずつ買い集めた活字により、「われわれの出版物はわれわれの手でつくろう」という主張のもとで、出版を行なった。その呼びかけに応じ、全国から支援があったとされる。その出版物を判明した限りだが、挙げてみる。

1 竹内てるよ詩集 『叛く』
2 草野心平詩集 『明日は天気だ』
3 中浜哲詩集 『黒パン党宣言』
4 萩原恭次郎詩集 『断片』
5 『アナーキズム文献出版年報』
6 草野心平訳 『サッコとヴァンゼッチの手紙』
7 坂本遼詩集 『たんぽぽ』
8 三野混沌詩集 『ここの主人は誰なのかわからない』
9 マラテスタ 『サンジカリズム論』
10 堀江末男小説集 『日記』
11 フランシスコ・フェレル 『近代学校』


  

 これらのうちの3、7、13は発禁処分を受けたとされる。私の所持しているのは11の『近代学校』で、もちろん発禁の渓文社版ではなく、前回記しておいたように、創樹社が昭和五十五年に復刻したものだ。それは『近代出版史探索Ⅶ』1289の『エマ・ゴールドマン自伝』の翻訳に際し、参考資料として読むべき一冊に数えられたからである。『同自伝』には「フランシスコ・フェレルを顕彰する」という一節が置かれ、フェレルがスペインで百を超える近代学校を創設し、ローマ教会の教義や権威から解放する試みに挑んだことが述べられていた。それに対し教会と国家は陰謀をめぐらし、フェレルがスペイン王殺害の企てに関わっていたという冤罪をでっち挙げ、彼を逮捕し、死刑を宣告し、一九〇九年に銃殺刑に処したのだ。フェレルの最後の言葉は「近代学校よ、永遠なれ!」というものだった。

近代学校―その起源と理想 (1980年) (創樹選書〈7〉) (創樹社版)  エマ・ゴ-ルドマン自伝 (上) エマ・ゴールドマン自伝 下

 エマはニューヨークのフェレルの追悼集会に加わり、翌年には大逆事件の死刑判決に対する抗議キャンペーンを組織している。これらのことから、フェレルの刑死と大逆事件はともに、東西の二大冤罪事件としてアナキズム史の中で語り継がれていったことを教えられた。それが『エマ・ゴールドマン自伝』におけるエマたちのフェレル追悼集会や大逆事件死刑抗議キャンペーンも大きく作用していると実感したのである。

 渓文社によるフェレルの『近代学校』のその死からほぼ二十年後の翻訳出版は昭和八年ということになるのだが、よくぞ刊行したとオマージュを捧げるべきであろう。詩集を主とする小版元にとって、翻訳出版は活字の組みからして困難を伴ったと思われる。またそれらの出版物は取次・書店という近代出版流通システムに依存するのではなく、読者への直接販売によっていたと推測できるので、生産流通販売も渓文社自らが担わなければならなかったと考えられるからだ。こうした出版活動は昭和九年まで続いたが、同年に渓文社は消滅したようで、翌年に神谷も無政府共産党事件で検挙され、戦後も含めてその行方は定かでない。

 一方の渓文社のパートナーだった竹内てるよがアナキズムから離脱し、平明な人生的詩風 の女流詩人として昭和十年代にはしかるべき人気を博していたことに比べ、神谷はひっそりと消えてしまった感が強い。そこに昭和十年代の出版の力学と詩集の在り方の問題も秘められているのかもしれない。


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古本夜話1503 藤澤省吾『詩集我れ汝の足を洗はずば』と竹内てるよ『海のオルゴール』

 かつて浜松の時代舎で見つけた無名の詩集に関して一文を草したことがあった。それは「廣太萬壽夫の詩集『異邦児』をめぐって」(『古本探究Ⅱ』所収で、この詩集が鳥羽茂のボン書店の前身である鳥羽印刷所で刷られ、花畑社から昭和四年に刊行されたこと、花畑社は詩誌『花畑』を発行し、廣田がその同人であり、銀座の弥生商会に勤めていたことまではたどってみた。ところが探索はそこで途切れてしまい、『異邦児』を読んだことによって、廣田の詩と時代のコアを浮かび上がらせることを試みるしかなかったのである。

古本探究 2

 しかし『異邦児』の場合、わずかな手がかりをたどって、昭和初年の無名の詩集と詩人と出版社をトレースしていくことは可能だったのだが、かなり長きにわたって手元においても、藤澤省吾『詩集我れ汝の足を洗はずば』はそのアリアドネの糸がまったくつかめない。しかもそれが第一書房から昭和十三年に出された一冊であるにもかかわらず。

(『詩集我れ汝の足を洗はずば』)

 この詩集は新四六判上製三七六ページ、奥付には所刷千部、定価一円五十銭とあり、検印紙には藤澤の押印も認められているので、自費出版ではなく、印税が生じる企画だったと考えられる。ただ第一書房は大正末の創業時代に『佐藤春夫詩集』『上田敏詩集』、堀口大学『月下の一群』、日夏耿之介『黒衣聖母』などの豪華版美本詩集で名をはせ、それは昭和に入っても続いていたけれど、昭和十年代には「戦時体制版」などの印象が強くなっていたと思われる。

(『佐藤春夫詩集』) 堀口大学訳 月下の一群 1926年(大正15年)第一書房刊 函入り、背金箔押し革装、天金  

 そのような時代にあって、長谷川は「詩人の美くしさ」(『第一書房長谷川巳之吉』所収)で、『セルパン』に掲載された竹内てるよの詩を見て引きつけられ、その未知の詩稿を編んだことにふれている。おそらくそれが昭和十五年の竹内の『詩集静かなる愛』『悲哀あるときに』、翌年の『生命の歌』の三冊の出版として結実していったのであろう。

  第一書房長谷川巳之吉 

 竹内は『日本近代文学大事典』において、明治三十七年札幌生まれ、詩人、児童文学者とあり、昭和に入ってから病気と貧困の中で詩作を続け、草野心平の『銅羅』『学校』、秋山清の『弾道』などのアナキズム系詩誌に寄稿し、昭和四年には渓文社を創設し、印刷と出版を手がけたとされる。初期の詩はアナキスチックな思考に立ち、現実への抵抗を歌い上げたが、その後は感傷的ヒューマニズムが表面化し、平明な人生論的詩風に移行したと評されている。確かに渓文社はフランシス・フェレル『近代学校』(遠藤斌訳、昭和八年)が発禁処分を受け、昭和五十五年に創樹社から遠藤による改訳が出された。

近代学校―その起源と理想 (1980年) (創樹選書〈7〉) (創樹社版)

 竹内の第一書房版の三冊の詩集は未見だけれど、時代的にいえば、叛逆の詩から主として平明な人生論風に移行した詩集となっているのではないだろうか。そうした竹内の軌跡もあってか、彼女は『日本アナキズム運動人名事典』『日本児童文学大事典』にも立項されているのだが、戦後になって中原淳一の少女雑誌『ひまわり』の投稿詩欄の選者を務めていたようで、それらも相俟って、人生論の書き手になっていったと推測される。

日本アナキズム運動人名事典  

 それを象徴するのは竹内の自叙伝ともいえる『海のオルゴール』(家の光協会、昭和五十二年)で、藤田弓子主演でテレビドラマ化されている。これは「子にささげる愛と死」とあるように、彼女の多くの人生詩が挿入され、生き別れした息子との再会と死に至る物語に他ならず、叛逆の詩やアナキズムの影はすでに消滅している。だが何気なく「私の好きな作家、アイルランドのシングの『海へゆく騎り手』という作品」、もしくは「私の作品は次第に認められ」、第一書房から刊行された二冊は「総合して『生命の歌』という、戦時体制版というのが、七十八銭でベストセラーとなり」、「苦しかった生活の中の、情けある印税はどんなに助けになったこと」かと記しているのは、かつての彼女の痕跡を伝えているかのようだ。

海のオルゴール 新装版: 子にささげる愛と詩 (新装版)

 詩集を入手していない竹内のほうはこうして戦後までその経路をたどれるのに、藤澤のほうは『我れ汝の足を洗はずば』の一冊を残しただけで、その行方をたどれない。この詩集はこの一冊全体からタイトルの長詩と見なせよう。それは愛人が彼の家を訪れ、その病気も思いので、母親から面会を拒否される会話から始まり、次のように続いていく。

 彼は夢の中で
  彼の愛人に逢ひうつくしい花の
 香りをかいだ そして
  笑つた

 このような夢想的モノローグが一〇七ページまで続き、一〇八ページからはアフォリズム的散文へと移行していく。それも二七八ページまで続き、次からは歌と対話が始まり、『聖書』や『神曲』を彷彿とさせる。藤澤は「あとがき」において、「人の思いは、現実より浪漫へ、浪漫より象徴への道を辿るもののごとくである」と述べているが、それこそはこの詩集の回路を物語っているものであろう。


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古本夜話1502 土田杏村、アルス、『日本児童文庫』

 『土田杏村全集』第十五巻所収の四十四年という短い「土田杏村年譜」をたどってみると、昭和二年に入って、『日本児童文庫』に関する言及を見出せる。それを順に追ってみる。
 
  (『日本児童文庫』)

 二月/アルス『児童文庫』の案を立てる。
 三月/この頃『児童文庫』に関する用事多し。
 五月/『児童文庫』の少年少女大会岡崎公会堂で開催。講師白秋氏、未明氏、草平氏。
 八月/『源平盛衰記物語』(アルス児童文庫の一冊)執筆にかかる。
 九月/『盛衰記』七月に書き終る。本文四百二十三枚。巻末文十四枚。
 十一月/児童文庫の『源平盛衰記物語』出来。

 これを読んで、あらためて杏村も『児童文庫』の著者の一人であり、彼の昭和二年の多くが『児童文庫』のために費やされたことを教えられた。それに彼の旺盛な執筆活動も昭和円本時代と併走していたいことにも気づかされた。

 アルスの『日本児童文庫』は端本を数冊拾っているだけなので、『日本近代文学大事典』第六巻所収の全七十六巻の明細リストを確認してみた。すると杏村は35の『源平盛衰記物語』だけでなく、74の訳『八犬伝物語』も担っていたとわかる。確かに昭和五年五、六月には『八犬伝物語』の執筆と送稿が記されている。アルスと杏村の関係は大正十二年の『女性の黎明』を機としていると察せられるが、『日本児童文庫』に至る詳細は定かでない。

(『源平盛衰記物語』) 

 ただここではこの二冊は入手していないこともあり、児童文学の分野における円本合戦と称された同じ昭和二年の興文社、文藝春秋社の『小学生全集』にもふれてみたい。それはやはり『日本近代文学大事典』『小学生全集』の明細も挙がっているし、『出版広告の歴史』にも、円本合戦を象徴するように、「日本児童文庫、小学生全集」が一章立てになっているからでもある。

 

 この円本合戦の起因はアルスの『日本児童文庫』企画案が興文社にもれ、文藝春秋社とタイアップして『小学生全集』へと盗用されたというものだった。アルス側には北原鐵雄の兄の北原白秋、興文社、文藝春秋社側には菊池寛が立ち、それは次第に北原白秋と菊池寛の広告批判合戦にまでエスカレートしていた。私は拙稿「芥川龍之介と丸善」「円本・作家・書店」(いずれも『書店の近代』所収)において、芥川の自死が昭和二年であることから、こうした円本時代のトラブルや販売促進のキャンペーンに駆り出されたことも、そのひとつの要因だったのではないかと述べておいた。杏村にしても、先述したように「この頃『児童文庫』に関する用事多し」とか、販売促進のために岡崎の少年少女大会に、白秋、小川未明、森田草平とともに出席しているのである。

 (『日本児童文庫』、白秋編『日本童謡集』)

 それらはともかく、『日本児童文庫』全七十六巻、『小学生全集』全八十八巻のすべてに目を通しているわけではないけれど、現在から見てどちらに軍配を上げるかと問われれば、著者と内容の多彩さは前者、装幀とビジュアルの楽しさは後者にあるように思える。「日本児童文庫、小学生全集」において、尾崎秀樹が『日本児童文庫』と比較して、「子どもたちらはむしろ『小学生全集』を愛読する者が多いらしく、どこの家でも『小学生全集』のほうが手垢で汚れていた記憶がある」と記しているのはそのことを伝えているのでではないだろうか。

 それは最近、浜松の時代舎で入手した『小学生全集』86の『面白絵本』、同48『日本童謡集上級用』にも明らかだ。前者の小学生全集編輯部編著は赤と黄色を基調とするシンメトリカルな武井武雄による装幀で、見返しも同様である。口絵・扉は海野精光が描いたところの「初級生の図書」と「上級生の図画」などで、それに岡田なみぢ、太田勝二、川上千里、江森盛八郎、道岡敏、宮崎ミサヲ、志田嘉明、杉雄二の挿絵が続き、そのまま一冊が瀟洒なイラスト、挿絵、漫画、カリカチュア集ともなっている。

(『面白絵本』)(『日本童謡集』)

 後者の西條八十編は初山滋によるエレガントな装幀・口絵、それに見開き二ページに三十五人の詩人による童謡、及び海野精光と川上千里を除いて『面白絵本』とは異なる十余人の挿絵・カットが配置されている。その例はやはり西條の童謡を挙げるべきだろう。よく知られた「唄を忘れた金糸雀(かなりや)は、/後の山に棄てましよか、/いえ、いえ、それはなりませぬ。」と始まる「かなりや」である。その右ページには母娘の姿が描かれ、娘がかなりやを手にし、母に問いかけているシーンが迫ってくる。この挿絵は誰によるのだろうか。

 このようにして、ひとつの童謡が挿絵とともに見開き二ページに掲載され、それらはいずれも異なる趣を呈しながらも、そこはかとないノスタルジアを喚起させ、大正に始まり、昭和に至った所謂「童謡の運動」のエトスを伝えているかのようだ。だが西條が「はしがき」において、「北原白秋氏の作品のみは、氏の都合上掲載を遠慮せざるを得なかつた」と付記していることはおかしい。これはもはや説明するまでもないだろう。


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