出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

「プログラムノベルス」と「プログラムピクチャー」

八〇年代に創刊された「プログラムノベルス」が多くの作家たちを生み出したことを既述したが、大沢在昌はまさにその典型であろう。彼の長編第一作『標的走路』 は八〇年に双葉社ノベルス、第二作『ダブル・トラップ』 は八一年に太陽企画出版のサンノベルスから相次いで刊行され、実質的デビューを果たしている。そして八〇年代を通じて、若い書き手としての試行錯誤を繰り返しながら、各社のノベルスを舞台として作品を刊行し、九〇年代になってカッパノベルス『新宿鮫』 でヒーローと物語の造型の成功に至ったと思われる。だから大沢もまた「プログラムノベルス」と併走してきた作家といえるだろう。

標的走路 ダブル・トラップ 新宿鮫

その中の一冊に『野獣駆けろ』 講談社ノベルス)がある。「書下ろし都会派ハードボイルド」と銘打たれた作品だが、注目されることもなく、「プログラムノベルス」の凡庸な一冊と見なされ、それは現在でも変わっていないだろう。だが論じるにあたって、最小限のストーリー紹介はしておかなければならない。
野獣駆けろ
主人公の高松圭介は、大学の同級生で文映社という出版社の編集者河合に呼ばれ、六本木の中国料理店に出向くと、そこに著名な老作家の辺見俊吾がいた。辺見は命を狙われていて、圭介にボディガードを依頼する。しかし圭介は年寄りのお守りはごめんだと断わる。その店を出てから、圭介は清水という男がやっている小さなバーに立ち寄り、麻布の自宅に戻ると、玄関のところで河合が死んでいた。
死因は絞殺だった。圭介は自宅で、捜査にやってきた五十代の佐伯刑事に尋問を受け、長く海外で暮らしていて三十四歳の無職であること、昨夜の河合や辺見との出会い、仕事を断わったことなど、当たりさわりのないことだけを話した。彼の話を受け、佐伯が言う。

 「高松さん。(中略)あなたはとても幸運な方だ。若いときに世界中を放浪し、親戚の財産を相続して、その年でこの一等地に一軒家を構えている。しかも生活のために働く必要もないばかりか、そうやって優雅に、呑みに出かけられる。まことにもってうらやましい。(中略)
 しかし、今夜のあなたはそれほど幸運じゃなかった。何しろ、自分の家の玄関でお友達の死体を発見されたのですからな。(後略)」

遊び人をよそおっている主人公には秘密があった。彼はペンネームで海外の傭兵部隊などのルポタージュを発表し、賞を受けているノンフィクションライターで、それは文映社の総合月刊誌編集長だけが知っていることだった。なぜ正体を隠さなければならないのか。それは圭介が元傭兵で、清水もそうであり、現役時代に得た情報ルートを使い、書いていたからだ。そして傭兵の仕事で得た資金によって自宅を買っていたのである。

どうも河合が殺されたのは、辺見が進めている新作と関係があるようなのだ。弔問の帰りに圭介と辺見は狙撃される。そこで圭介と辺見の愛読者の清水はボディガードを引き受ける決意をし、辺見が小説完成のために身を隠そうとする山中のリゾートホテルに同行する。依頼者は不明だが、辺見を狙っているのは圭介たちとも面識のある、やはり日本人傭兵の二人で、筋金入りのプロなのだ。圭介たちは高級会員制ホテルで、彼らを迎え撃つことになる。

『野獣駆けろ』 の高松圭介は謎めいたヒーローというよりも、バブル時代の主人公のようにも映る。そして登場人物、テーマ、ストーリー展開はそれなりに整っているにしても、いずれも類型的で、書きこみが浅く、「プログラムノベルス」特有の物足りなさがつきまとっていた。それに「著者のことば」として、「人生をゲームとして生きる」というセオリーが物語を包み、戦闘場面も含めて、シミュレーションゲームのような印象を残す作品でもあった。

もし九〇年に製作された東映Vシネマ『野獣駆けろ』 を見なかったならば、大沢の小説もそのまま忘れていただろう。ところが何気なしに見た映画がアクションドラマの秀作に仕上がっていたので驚いてしまい、原作をあらためて思い出させたのである。

スタッフと俳優たちを示そう。監督は中島紘一、脚本は加藤正人であり、二人についてはほとんど何も知らない。だが加藤のシナリオは小説の最良の場面とセリフを巧妙に再配置し、中島はそれをシャープに映像化し、日本版フィルムノワールのように仕上げている。圭介は神田正輝、清水は塩見三省、辺見は南原宏治、佐伯は宍戸錠で、彼らはそれぞれ見事な役柄を務め、原作以上のリアリティを表出させている。失礼ながら神田は松田聖子の元夫という認識しかなかったので、その落ち着いたはまり役と身体性に注目させられ、新人らしき塩見も板についた脇役ぶりで、これから伸びていく個性を感じさせた。南原と宍戸も作家や刑事の存在感を立体的に示し、監督、脚本、俳優たちの三位一体のコラボレーションによって、すばらしい一作として出現したように思われた。もちろん大作でも力作でもなく、かつての「プログラムピクチャー」の再現のような雰囲気があった。そのように考えてみると、『野獣駆けろ』 は「プログラムノベルス」と「プログラムピクチャー」の幸せな婚姻であり、絶妙な組み合わせが東映Vシネマの一作として結実したことを意味していよう。

東映Vシネマとは八九年に東映がビデオレンタル店向けに製作したオリジナルビデオであり、初めて熱気あふれるVシネマ本を著した谷岡雅樹『Vシネマ魂』 四谷ラウンド、九九年)の中で、他社の劇場公開しない「映画」も含め、総称してVシネマと呼んでいる。そして彼もまた「昔のプログラムピクチャーが恵まれた形で残ったのがVシネマというわけだ」と書いている。ただ残念なことにその後の著書『キングオブVシネマ』 太田出版、〇二年)も含めて、『野獣駆けろ』 への言及はない。

Vシネマ魂 キングオブVシネマ

かつて映画館の代わりにビデオレンタル店に向けて、「量産化、定期化、路線化」されて送りだされるVシネマは、まさに九〇年代の「プログラムピクチャー」だった。そしてここから監督として、三池崇史黒沢清たち、俳優として哀川翔竹内力たちを輩出させてきた。だからVシネマを抜きにして、現在の日本映画は語れないはずだ。だが『Vシネマ魂』 で挙げられている二千本のVシネマは、大半がビデオのままで消えてしまい、DVD化されていないのではないだろうか。だから『野獣駆けろ』 も私だけが言うのかもしれないが、もはや見ることのできないVシネマの名作と化している可能性が高い。