もう一編だけ、新島広一郎の『講談博物志』に関連して書いておく。それも新島の収集によって明らかになったのであり、戦後出されたものではあるけれど、明らかに戦前版の焼き直しだと確認できたからだ。それは富士屋書店から昭和三十年に刊行された『侠客国定忠治』である。
この富士屋書店に関しては『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の中で、次のように会社説明が述べられているし、そこは講談本の書影も見えていた。
大正三年先代石川謙次郎(大阪・又間精華堂出)が大阪市南区松屋町三四にて、富士屋書店を創業、月遅れ雑誌の販売をはじめた。その後、絵本の出版をはじめ本版刷、石版刷を経て、現在のオフセット印刷の絵本を出版するようになった。東京大震災を機に東京にも進出した。
昭和九年大阪市住吉区阪南町に社屋、印刷製本工場を建築移転、株式会社富士屋書店を設立、同時に東京馬喰町に東京店を設け、絵本を主とし、正月用子供カルタ双六を出版販売した。又大阪・東京それぞれ別個に出版、互いに品交換して販売した。(中略)
昭和二十七年、現在地に株式会社富士屋書店を設立、昭和二十八年七月石川謙次郎死去により、石川正雄が代表者となり現在にいたる。
もうひとつの立項では講談本出版についても語られ、創業以来の営業形態は幼児絵本が中心であることから、大取次よりも組合員や地方の取次、玩具問屋などを主としているとされる。脇阪要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』において、石川謙次郎は「絵本出版の先駆者」とあるだけだが、『三十年の歩み』に記された富士屋書店の軌跡は、大阪と東京の出版業界と特価本業界のクロスする業態、月遅れ雑誌、絵本や講談本の出版、東京進出、各出版物の融通の仕方、営業形式などをシンプルに伝え、出版社・取次・書店という近代出版流通システムにも距離を置く、富士屋書店ならではのかたちが垣間見られて興味深い。
さて『侠客国定忠治』に戻ると、奥付の編集兼発行者は石川正雄とあるので、東京に移った二代目による出版だとわかる。五百ページ近くの四六判ソフトカバーの一冊で、表紙の絵は講談本御用達ともいうべき長谷川小信の手になるものである。この『侠客国定忠治』の絵にしても、本連載301でふれた『筑紫巷談妖術白縫譚』にしても、長谷川による表紙カバーは芝居小屋の看板のようで、講談の見せ場を描いていると想像がつく。
長谷川の名前は新島の『講談博物志』で知ったのだが、『日本人名大事典』(平凡社)によれば、大阪浮世絵画家の息子で、絵本の挿絵を多く描き、明治十九年没とある。それ以外に長谷川がどのような画家なのか知らないけれど、講談本の絵柄にふさわしいと思われる。
[f:id:OdaMitsuo:20130521151555j:image:h110] 『日本人名大事典』
やはり巻末には「長編講談発行目録」が付され、六十四冊がラインナップされている。それらは『忍術漫遊猿飛佐助』から始まり、『諸国漫遊水戸黄門』へと至るもので、立川文庫以来の主人公と物語が継承されているとわかる。この富士屋書店と「長編講談」シリーズの、戦前における出版の流れを、『講談博物志』の中にたどってみる。
すると昭和八年のところに、富士屋書店が東京と大阪で刊行したと見られる「名作長編講談」全八十巻が『智謀真田幸村』の書影つきで紹介されている。そしてこのシリーズは富士屋書店の最初の講談全集で、全八十巻で各五百ページ前後の長編だが、各行の字数が少なくて読み易く、長谷川小信の口絵が二枚ついているけれど、本文に挿絵がないので淋しいとの説明も、ほぼ戦後版と共通しているといえよう。
そして戦後を迎え、富士屋書店が昭和二十三年から「戦前に発行した『名作長編講談』の再版に着手した。昭和二十三年から三十年までに約八十巻出したが、途中昭和二十六年には東京の光文社が肩替りしている」との記述も見えるが、戦前版が一冊だったのに対し、戦後は『檜山騒動相馬大作』『忍術漫遊猿飛佐助』『剣聖塚原卜伝』の三冊がやはり長谷川小信の表紙絵を掲載して紹介されている。
しかし『講談博物志』の講談本シリーズの出版の流れをたどっていて気がつくのは、これらの講談が何度となく他のシリーズへと移され、繰り返し出版されていたという事実である。例えば、岡本増進堂が大正九年に出した「岡本長編講談」は四六判、長谷川小信絵、活字を大きくした五百ページと、まったく「長編講談」とアイテムが同じなので、作品も同様に重複しているのではないだろうか。その一例を挙げれば、「長編講談」リストに、前述の『筑紫巷談妖術白縫譚』も含まれているからだ。
ただ昭和二十六年刊行分は光文社が肩替りしたとの記述に関してだが、先の「長編講談発行目録」に記載があるのは六十四冊だと既述しておいたように、八十冊のうち十六冊は何らかの事情が生じ、光文社に版権が移ってしまったことを意味しているのではないだろうか。前々回、講談社が講談本の出版を通じて、赤本業界=特価本業界や大阪の出版社群の近傍に位置していたことを既述しておいたが、それは講談社の子会社である光文社も同様だったと考えられる。
しかし高度成長期を通じて講談社や光文社は成長し、一方で同じように講談本を出していた小出版社が次第に消えていったのは、前者が出版社・取次・書店という近代出版流通システムの戦後の成長に相乗りしたからであり、後者はそれにうまく併走できなかったことにも起因しているのだろう。九二年の出版社名簿を繰ってみると、富士屋書店の名前は見当らないし、あらためて考えてみれば、『三十年の歩み』が刊行されたのも八一年だったのだ。すでに三十年以上が経ってしまっている。その間に全版に属する出版社も消えていったことをあらためて思い出す。
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