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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

混住社会論83 谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)

痴人の愛(新潮文庫


谷崎潤一郎『痴人の愛』田園都市株式会社が開発を進めていた荏原郡大森町を主たる舞台としているが、この作品が大阪で書かれたことに関してはあまり言及されていない。横浜に住んでいた谷崎は一九二三年箱根で避暑中に関東大震災に遭い、関西の阪急沿線の苦楽園の六甲ホテルに移り住んでいる。そして同じく阪急沿線を転居しながら、翌年に『大阪朝日新聞』に『痴人の愛』、『女性』(プラトン社)にその続編を連載し、二五年に改造社から単行本化されるに至っている。

それゆえに本連載でもふれた『阪神間モダニズム』『痴人の愛』にも投影されているはずで、三二年に書かれた「私の見た大阪及び大阪人」(篠田一士『谷崎潤一郎随筆集』所収、岩波文庫)において、阪神地方の「田園都市の膨張につれて年々狭められていく田圃道や畦道」の周辺の光景に見られる田舎の行事の名残りである捨てられた七夕の笹の棒、茅葺き屋根に挿してある菖蒲の「あわれともまたなつかしい気」について語っているが、これも『痴人の愛』の物語の根底に流れているひとつの情感のように思える。具体的にいえば、その情感とは『阪神間モダニズム』に顕著なロバート・フィッシュマン的「ブルジョワユートピア」の気配ではなく、「あわれともまたなつかしい気」がする「安普請のユートピア」のイメージに覆われているのではないだろうか。
阪神間モダニズム 谷崎潤一郎随筆集