谷崎潤一郎の『痴人の愛』は田園都市株式会社が開発を進めていた荏原郡の大森町を主たる舞台としているが、この作品が大阪で書かれたことに関してはあまり言及されていない。横浜に住んでいた谷崎は一九二三年箱根で避暑中に関東大震災に遭い、関西の阪急沿線の苦楽園の六甲ホテルに移り住んでいる。そして同じく阪急沿線を転居しながら、翌年に『大阪朝日新聞』に『痴人の愛』、『女性』(プラトン社)にその続編を連載し、二五年に改造社から単行本化されるに至っている。
それゆえに本連載でもふれた『阪神間モダニズム』が『痴人の愛』にも投影されているはずで、三二年に書かれた「私の見た大阪及び大阪人」(篠田一士編『谷崎潤一郎随筆集』所収、岩波文庫)において、阪神地方の「田園都市の膨張につれて年々狭められていく田圃道や畦道」の周辺の光景に見られる田舎の行事の名残りである捨てられた七夕の笹の棒、茅葺き屋根に挿してある菖蒲の「あわれともまたなつかしい気」について語っているが、これも『痴人の愛』の物語の根底に流れているひとつの情感のように思える。具体的にいえば、その情感とは『阪神間モダニズム』に顕著なロバート・フィッシュマン的「ブルジョワ・ユートピア」の気配ではなく、「あわれともまたなつかしい気」がする「安普請のユートピア」のイメージに覆われているのではないだろうか。
『痴人の愛』の主人公河合譲治は「君子」にして「模範的なサラリーマン」であるが、浅草のカフェエの給仕女をしていたナオミに魅せられる。彼は二十八歳、彼女は十五歳だった。譲治は宇都宮の大きな農家の生まれで、上京して蔵前の高等工業を出て技師となり、大井町の会社に通い、百五十円の月給をもらい、仕送りの義務もなかったので、かなり楽な生活を送っていた。ただ田舎育ちの無骨者だったので、異性との交際はなかったものの、心の中では絶えず注意を払っていた。ただ結婚に対しては「ハイカラな意見」を持ち、見合いのような面倒な手続きをふまず、「自由な形式」でしたいと思っていた。そんなところに現われたのがナオミだった。
譲治の望みは財産家の娘や学歴のある偉い女ではなく、「ナオミのような少女を家に引き取って、徐ろにその成長を見届けてから、気に入ったならば妻に貰う方法が一番いい」し、「たわいのないままごとをする」ような「シンプル・ライフ」を送ることにあった。ジル・ドゥルーズの『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳、晶文社)に「マゾヒストは本質的に訓育者」だという言葉があったことを思い出す。
ナオミはカフェエに出たばかりの女給見習いだったが、名前が「ハイカラ」だし、西洋人との「混血児」のようなところが気に入り、譲治は彼女を活動写真や食事に誘い、それは子供と伯父さんの関係に似ていて、「お伽噺の世界」にでも住んでいるようだった。
ナオミの家ははっきりとわからなかったが、浅草の花屋敷近くの千束町の横丁にあり、十五歳でカフェエの女給に出されていたわけだから、家庭環境は推して知るべしで、譲治の申し出は張り合いがないほど簡単に受け入れられた。そして二人は適当な借家探しを始めた。それを譲治は回想している。「もしあの時分、麗らかな五月の日曜日の朝などに、大森あたりの青葉の多い郊外の路を、肩を並べて歩いている会社員らしい一人の男と、桃割れに結った見すぼらしい小娘の様子を誰かが注意していたとしたら、まあどんな風に思えたでしょうか?」と。そうしてようやく家が見つかったのである。
(……)さんざん迷い抜いた揚句、結局私たちが借りることになったのは、大森の駅から十二三町行ったところの省線電車の線路に近い、とある一軒のはなはだお粗末な洋館でした。いわゆる「文化住宅」というやつ、――まだあの時分はそれがそんなに流行ってはいませんでしたが、近頃の言葉で云えばさしずめそういったものだったでしょう。勾配の急な、全体の赤さの半分以上もあるかと思われる、赤いストレートで葺いた屋根。マッチ箱のように白い壁で包んだ外側。ところどころに切ってある長方形のガラス窓。そして正面のポーチの前に、庭というよりはむしろちょっとした空地がある。と、先ずそんな風な恰好で、中に住むよりは絵に画いた方が面白そうな見つきでした。もっともそれはそのはずなので、もとこの家は何とかという絵かきが建てて、モデル女を細君にして二人で住んでいたのだそうです。従って部屋の取り方などは随分不便にできていました。いやにだだッ広いアトリエと、ほんのささやかな玄関と、台所と、階下にはたったそれだけしかなく、あとは二階に三畳と四畳半とがありましたけれど、それとて屋根裏の物置小屋のようなもので、使える部屋ではありませんでした。その屋根裏へ通うのにはアトリエの室内に梯子段がついていて、そこを上がると手すりを繞らした廊下があり、あたかも芝居の桟敷のように、その手すりからアトリエを見おろせるようになっていました。
ナオミは最初この家の「風景」を見ると、
「まあ、ハイカラだこと! あたしこういう家がいいわ」と、大そう気に入った様子でした。そして私も、彼女がそんなに喜んだのですぐ借りることに賛成したのです。
『痴人の愛』の時代設定は大正半ばから昭和初期にかけての八年間であり、ちょうど一九二〇年代に相当している。「『文化住宅』というやつ、―まだあの時分はそれがそんなに流行ってはいませんでした」との言葉はそれが関東大震災前であることを示している。実際に「文化住宅」が普及していくのは二二年に上野公園で開催された平和記念東京博覧会の一角に文化村が設けられ、そこに十四戸の洋風小住宅が展示されたのがきっかけだったとされている。内田青蔵の『消えたモダン東京』(河出書房新社)は大正から昭和にかけての「文化住宅」の歴史をたどっているが、そこには博覧会の文化村の住宅の写真が掲載され、その一端がうかがわれる。譲治がいうところの急勾配の赤いストレートで葺いた屋根、モルタル塗りの白い壁、長方形のガラス窓などは「文化住宅」に共通の特徴だといっていい。さすがにアトリエとロフト的な二階の間取りは示されていないにしても。
南博編『大正文化』(勁草書房)によれば、大正時代に生み出された都市型新中間階級、すなわちサラリーマンや官吏、医師や弁護士などを代表とし、文化住宅はそうした新中間層文化のシンボルだったとされる。それとパラレルに近郊私鉄沿線の土地開発と分譲、消費生活におけるデパートの急速な発展が重なっているのである。これらの問題については本連載でも既述してきたが、『痴人の愛』の背後にはこうした「ハイカラになる」同時代の社会的物語の集積が控えているといっても過言ではない。
譲治こそはそうした新中間階級の代表的存在と見なせよう。宇都宮の「草深い百姓家」の出であるにしても、高等工業を卒業した電気会社の技師で、月給百五十円の「模範的サラリー・マン」と設定され、生活も「シンプル・ライフ」をめざしているとされるので、大正時代の新中間階級の典型といえる。
そして彼はナオミという少女に出会ったのだ。彼女は芸者にされるはずだったが、当人がその気にならなかったので、カフェエの女給に出されていた。彼女の家がある千束町は浅草公園から吉原の廓へ通う道があり、料理店、質屋、芸妓屋、待合、銘酒屋などが多く、凌雲閣もそびえ、その下には私娼がたむろしていた。「生粋の江戸ッ児」らしいナオミの家は銘酒屋だったと一ヵ所だけ言及がある。銘酒屋とは酒は名目で、女が客に媚を売る商売だという。ただ関東大震災で「十二階」と称された凌雲閣は倒れ、多くの店なども玉の井へ移転したので、ナオミも物語の最後のところでは故郷を失っていたことになる。そのようなナオミを十分に教育し、立派な女に仕立てようと譲治は思ったのだ。
そのために大森の「お伽噺の挿絵のような」家を借りることになったのである。「呑気な青年と少女とが、なるたけ世帯じみないように、遊びの心持ちで住まおうというにはいい家」だったが、「呑気な青年」は「草深い百姓家」の出、少女は「見すぼらしい小娘」で、家もまた「はなはだお粗末な洋館」だという断わりも忘れずに付け加えられている。それに新居にふさわしいベッドは高いので、ナオミは田舎の家から送ってきた女中用布団に寝たという付け足しに、ちぐはぐな生活を象徴させているのだろう。
つまり「文化住宅」に象徴されるちぐはぐな「文化」と新中間階級の出現の時代にあって、青年と少女が出会い、物語の装置としての郊外の「お伽噺の家」に住み、ここに本格的に『痴人の愛』が始まっていく。そうしてナオミはすっかり女学生になりすまし、英語と音楽とダンスをならうのだが、英語の場合、リーディングはうまくなったけれども、文法や和文英訳がまったくできないのだ。つまり表層をまねたりはできるが、内実はまったく理解できないことを表わしている。その一方で、ナオミは法律的にも譲治の妻となった。そして彼女をさらに美しくしようとして、日曜毎に呉服屋やデパートにいき、衣裳を揃えてやり、海水浴やダンスにも出かけるのだった。そのようなナオミを見ていると、これもまた本連載10 のナボコフのが『ロリータ』において、「彼女は理想的な消費者だった」という一節があったことを想起してしまう。
このようにして、当初江戸のロリータのようなナオミは譲治との「文化」生活の中で、様々な教育を通じて、郊外のファム・ファタルのような存在へと成長していく。かくして郊外の「お伽噺の家」は倒錯的なトポスと化し、マゾヒズムの帝国の様相を呈し、譲治は「ジョージ」と呼ばれるようになり、ナオミの勝利で終わるのである。「私自身は、ナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方がありません。ナオミは今年二十三で私は三十六になります」。
私はゾラの『ナナ』の訳者でもあるので、最後にひとつだけ付け加えておくと、ナオミと譲治の関係は、ナナとミュファ伯爵のそれを彷彿とさせる。ミュファもまた馬となってナナに奉仕するのだ。この事実からして、谷崎が西洋の性的文献に通じていたことはよく知られているが、谷崎が『ナナ』に多少なりともヒントを得ていたのは確実だと思われる。