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古本夜話489 江馬三枝子『日本の女性』

江馬修の『山の民』の初稿が飛騨の郷土研究誌『ひだびと』に連載されていたことは既述した。昭和十年から敗戦に至るまで飛騨において、百十二冊が刊行された民俗学と考古学を主とする『ひだびと』の編集や執筆を通じて、江馬を支えたのは二番目の妻の三枝子だった。
(冬芽書房版)

彼の最後の愛人であった天児直美さえも『炎の燃えつきる時―江馬修の生涯』(春秋社)の中で、「修は三枝子を柳田門下に入門させ、意識的に民俗学者に育てあげ」、「『山の民』を書く上で、三枝子夫人の知性と行動力は不可欠のものだった」と書いているほどだ。
炎の燃えつきる時―江馬修の生涯

しかし江馬のほぼ戦前までの自伝『一作家の歩み』には、彼女の名前すらも明記されていない。彼は郷里の斐太中学を中退し、学歴もないし、文壇での地位も有していなかったにもかかわらず、知遇を得ていた新潮社から大正五年に『受難者』を刊行し、一躍ベストセラーとなったことで、多くの女性ファンが押し寄せ、三枝子もそのような取り巻きの一人だったように思われる。おそらく彼は大正八年の『地上』の島田清次郎、同九年の『死線を越えて』の賀川豊彦に先駆けるベストセラー作家の成功モデルとなったと推測できる。つまり小説で一山当て、金も女性も思いのままという近代の文学ジャーナリズムの神話を確立させた文学者だったのではないだろうか。しかもそれがうたかたのようなものであることも、江馬のその後の人生が物語っている。
地上 死線を越えて

だが金はうたかたにしても、生涯を通じて女性関係は途切れず、六十三歳で、これも昭和戦前のベストセラー『綴方教室』の著者豊田正子と同棲し、続いて七十歳半ばになって天児直美と恋愛関係になり、彼女に看取られ、八十五歳の生を終えている。
綴方教室

その豊田正子でさえ、『一作家の歩み』には実名で登場し、恋愛の事情をそれなりに報告しているのに、三枝子については「私は再婚した。二人とも妻もやはり二度めの結婚であった」とだけ記され、しばらく後で「家庭生活は少しも幸福」ではなく、「私は二度めの妻のために、生涯で初めて経験するような忌まわしい事件」に巻きこまれ、「私の知らない彼女の秘密の生活」を知ったと書いている。天児の記述によれば、彼女の旧姓は富田ミサホであり、再婚して三枝子を名乗り、江馬がプロレタリア作家同盟に属していたことから、彼の指導下に『プロレタリア芸術』などに小説や随筆を発表し、左翼運動に関係し、江馬の転向後は柳田民俗学にも接近していったことになる。

つまり推測するに、三枝子が左翼運動に接近する中で、江馬のいう「彼女の秘密の生活」が生じ、「忌まわしい事件」が起きたのであろう。しかしそのことから逃れるために、江馬は飛騨の高山へと戻る決意に至り、『ひだびと』創刊と『山の民』を書くに至ったのだから、三枝子の存在こそが陰に陽に江馬の生活と文学を支えたともいえる。そのような彼女に対するダブルバインド的というか、二律背反的な思いが強くあったために、彼は三枝子のプロフィルをぼかしてしまったように思われる。

江馬が三枝子をどのようにして柳田国男のところに送りこんだのかは不明だが、彼女は昭和十四年に創元社から刊行の柳田の『木綿以前の事』(岩波文庫)に二ヵ所ほど出てくる。そこで柳田は、「江馬夫人」の飛騨における穀物を粉にして調整したものを「モチ」とよぶ証言を引いている。『ひだびと』に寄せた彼女の民俗学研究によっているのだろうが、これらをきっかけにして、数年後に三枝子は『飛騨の女たち』『白川村の大家族』(いずれも三国書房)の刊行に至ったと考えられる。転向したマルキストたちが柳田民俗学を学び、『民間伝承』に加わっていった事実ついては、拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究3』所収)に既述しているので、そちらを参照してほしい、江馬は自分の代行者として、三枝子を柳田門下へと誘ったのであろう。かくして彼女は前記の二冊を著わすまでの民俗学者として成長していく。
木綿以前の事 古本探究3

実は戦前の本ではないが、彼女が戦後になって出した本を一冊持っている。それは昭和三十三年に刊行された『日本の女性』(『日本人の生活全集』10、岩崎書店)で、これは慶應義塾大学助教授池田弥三郎と江馬三枝子の共著となっている。そして巻末の著者紹介で、彼女が明治三十九年生まれで、札幌市立高等女学校卒、日本民俗学会研究員とあり、天児がふれている、高山の女たちと和服にしても着こなしが異なる「三枝子の華やかさ」を彷彿させる写真が掲載されている。
日本図書センター復刻)

ただ残念なのはタイトル通り「日本の女性」の様々な現在の姿を、過去の民俗に求め、説明を試みたこの一冊は、池田が「はしがき」に書いているように、「全篇完成した江馬氏の草稿を、素材と意見とに解体して、あらためて組織を立て、その各所に素材と意見とを配置して、私が書きおろした」ために、三枝子ならではの民俗学的アプローチと文体が見えなくなってしまっていることである。だがそれでもこの本は、戦後に二人は別れることになったにしても、江馬修が『山の民』の改作に持続して取り組んでいたように、三枝子も『山の民』の成立とパラレルに営まれていた民俗学探究への道を歩み、それに生きていた事実を告げている。そうした意味において、二人の飛騨高山における、十数年に及ぶ生活は「忌まわしい事件」の余韻に包まれていても、かけがえのない時代を形成していたように思われる。

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