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古本夜話735 ウラヂミルツォフ『蒙古社会制度史』

 本連載725でドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』において、原注に『蒙古社会制度史』が挙げられていることにふれた。幸いにしてその『蒙古社会制度史』を入手できたので、ここで取り上げておきたい。

千のプラトー

 同書はソ連の有数の蒙古学者ウラヂミルツォフが一九三四年に刊行したもので、彼は一八八四年に生まれ、日露戦争時に日本研究を志し、ペテルブルグ大学東洋学部に入学したが、日本学科がなかったことから、蒙古学科に進んだ。そしてその蒙古学に関する多くの著作と研究を重ねて、同大学の教授となり、一九二九年には学士院会員に選抜されたが、三一年に四十七歳で急逝している。その業績は冒頭の十ページにわたって掲載された論文、研究、著書などに明らかである。

 日本での『蒙古社会制度史』の翻訳は、昭和十一年に外務省調査部によってなされ、調査の五四号として刊行された。しかしその後、蒙古社会研究の重要文献としての需要が高まり、十六年に改定を加え、生活社からの出版に至った。ただ私の入手したのは十七年の再版で、確かにそれは大東亜戦争下において、『蒙古社会制度史』を求める確実な読者層が存在していたことを示していよう。

 これは余談になってしまうけれど、戦前の島尾敏雄のことを調べていると、九州帝大で東洋史専攻だった彼の夢は蒙古や中央アジアに赴くことだったようだ。そうした蒙古幻想からすれば、島尾も同書を買い求めた読者の一人だったかもしれず、本連載718の京大生の梅棹忠夫たちだけでなく、同じような学生たちが蒙古や中央亜細亜を夢みていたのかもしれない。

 だが『蒙古社会制度史』は蒙古幻想ではなく、蒙古人を「蒙古語系原語の一を母語とする民族」をトータルとして捉え、それを正面から描こうとしている。ウラヂミルツォフはいう。

 蒙古人の社会組織に関する総合的研究は存在しない。大多数が遊牧民諸部族のこの組織はそもゝゝいかなる特質を持つものとすべきであらうか? この組織は如何なる社会創生に属するのであらうか?
 かやうな諸問題を解決せんとする企図、特にその進化の方面より見た蒙古人の社会組織を研究せんとする企図には、たゞ特殊的な蒙古額的興味があり得るに止まらず、又、一般社会学的な興味もあり得る。殊に、古い生活が急速に過去のものとなり、しかも各種の新しい遺産を残しつゝある今日において然りである。
 蒙古人は、ずつと古く広汎な歴史の舞台に現れ、波乱重畳たる長い歴史的生活を経来つた民族である。十三世紀、チンギス・ハンの時代に興隆した世界帝国は、亜細亜の殆んど一切の国々と欧羅巴の一部との生活に影響を与へた。蒙古人の後略は、数時代に亙つて蒙古的な要素を主導的な地位に置く新しい国家結合体を創建した。蒙古帝国の崩壊過程において勃興した大多数の新国家んに人種学的な勢力としての蒙古人はその姿を消したけれども、彼等は再び複雑なトルコ族、例へば、カザック人及ぶウスベック人を構成する一因となつたのである。
 さらには東方の蒙古やヂュンガリヤの山岳やステップに蒙古人が残ってゐて、その「激情的な歴史」“histoire passionnate”を続けてゐる。

 これが『蒙古社会制度史』に示された基本的視座であり、エッセンスともいうべき部分なので省略せず、長い引用になってしまった。このような視座から出発して、ウラヂミルツォフは第一部でチンギス・ハン帝国形成以前と帝国時代の蒙古社会を浮かび上がらせる。それはすなわち、十一世紀から十三世紀の及ぶ遊牧封建制度の発生時代に当たる。第二部は蒙古諸部族の多くが満州諸皇帝の封冊を受けるに至って、封建制度が繁栄を極めた十四世紀から十八世紀までを含み、第三部はこの二世紀、つまり遊牧封建制度の崩壊と終焉の時代を対象としている。だが残念なことに、第三部はウラヂミルツォフの急逝もあり、中絶してしまっていることも付記しておこう。

 これらを論じるに際して、基本文献となるのは本連載724などでもふれてきた『元朝秘史』、それに他ならぬドーソンの『蒙古史』ということになる。それらをベースとして、第一部ではロシア語訳と英訳の『西遊記』、チンギス・ハンに会ったとする宋の趙珙の『蒙韃備録』、一三六九年の官製の『元朝史』よりも重要な蒙古伝説を記した『聖武親征録』、十三世紀半ばの支那人張徳輝の蒙古旅行記『邊堠紀行』が挙げられている。またこれら支那側資料に加え、回教徒側やアルメニア人側の主要な資料、ヨーロッパの紀行家による報告の参照も明記され、資料の充実さからいっても、また明快な記述からしても、門外漢ではあるが、『蒙古社会制度史』を労作と呼ぶことに躊躇しない。

f:id:OdaMitsuo:20171105104317j:plain:h115(『蒙古史』)

 しかしそれにつけても、『蒙古社会制度史』は外務省調査部訳とされている、実質的に誰が翻訳に携わったのかが気にかかる。それとやはり生活社との関係で、巻末広告には同じく本連載724で言及した小林高四郎訳注『蒙古の秘史』『蒙古黄金史』が、「蒙古民族古典」第一部、二部として掲載されている。これは『元朝秘史』の邦訳に他ならず、この時代に、想像する以上に蒙古幻想が高まっていたと見なすべきであろう。
元朝秘史


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