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古本夜話871 古野清人編『南方問題十講』

  前回の昭和十八年刊行の『バリ島』がA4判二段組、定価五円五十銭で、初版三千部だったことを示しておいた。これも所謂南進論関連の一冊として、軍関係の助成金を得ての出版だと見なせよう。だがこうした特殊な専門書ともいうべき『バリ島』ではなく、一般的な南進論関連書はどれほどの市場規模、具体的にいえば、どのくらいの初版部数を刷ることができたのであろうか。
f:id:OdaMitsuo:20190117114355j:plain:h120(『バリ島』)

 そうした例としての恰好の一冊を入手している。それは昭和十七年七月に刊行された第一書房の『南方問題十講』で、奥付には定価一円三十銭、第一刷一万五千部とある。大東亜戦争下において、取次は日配一元体制となり、買切制に移行しつつあった。そして国内だけでなく、支那、満州、朝鮮、台湾などの流通も含んでいたことも考えれば、一万五千部の配本は可能であっただろうし、出版社にとってもかなりの利益を想定できる企画だったことになる。

 編者の古野清人はその「序」で、そうした状況に見合う文言を述べている。「大東亜戦争の輝やかしい成果に伴うて、大東亜圏の有力な一環をなす南方諸地域に対する経済・政治・文化的観点からする国民的関心は俄然高揚してきた」と。そしてこれは司法保護研究所が「大東亜戦争遂行ニ伴フ司法保護事業ノ時局的展開ノ必然性ニ鑑ミ」、南方問題講習会を開催し、そのうちの十講を編んだものとされる。

 そのタイトルと講師名、役職名を挙げてみる。

1「大東亜共栄圏の経済」 山田文雄 太平洋協会調査部長
2「大東亜共栄圏の文化総論」 古野清人 東亜経済調査局西南アジア班嘱託
3「南方民俗の宗教文化」 宇野円空 東京帝大教授、東洋文化研究所員
4「南洋の華僑」 井出季和太 東亜経済調査局南洋班嘱託
5「衛星について」 深田益男 陸軍軍医学校教官・軍医少佐
6「泰の近情」 東光武三 外務省南洋局第二課長
7「ビルマ概観」 国分正三 ビルマ研究会会長、海軍軍令部嘱託
8「マレー事情に就いて」 野村貞吉 元南洋日日新聞主筆
9「蘭領東印度の内情」 岡野緊蔵 大信産業社社長
10「比島事情」 三吉朋十 南洋経済研究所嘱託

 様々な分野から「南方問題」関係者や研究者たちが召喚されているとわかる。はやりここでも山田文雄に象徴される本連載120や584などの太平洋協会、及び古野や井出季和太が属する同564などの東亜経済調査局の存在が浮かび上がってくる。

 しかしこれらのすべてに言及することはできないので、1の山田の「大東亜共栄圏の経済」を取り上げてみる。その前に断っておくと山田のプロフィルは太平洋境涯調査部長であることしか判明していない。けれども彼の講演が経済と資源問題にすえられていることからすれば、地政学に通じた経済学者とも見なせるだろう。まず彼は大東亜共栄圏に関して経済的視点から考察すると、結局のところ問題なのはその大東亜共栄圏内部における経済的な自給性であるとし、次のようにいっている。

 即ち、日満支を一体として、更に之に南方圏を加へた一つの生活圏を設定し、その内部において各民族が共存共栄の実をあげ、以て世界の平和に寄与する。これが大東亜共栄圏といふものに対する私の極く概略の規定であります。而して之を経済的に見れば、その内部に於ける自給性といふことが問題になると思ふのであります。

 それゆえに大東亜共栄圏の範囲として、経済的な自給ができるのであれば、オーストラリアを外し、またそのために必要ならば、インドを加えなければならないとする。そして山田は世界を四つブロックに分けてみせる。それらはドイツ、イタリアを中心とするヨーロッパにアフリカを加えたヨーロッパ・アフリカブロック、ソ連を中心とするブロック、南北アメリカをひとつとする汎米ブロック、それから日本をチュ云う秦とする大東亜ブロックである。

 この四つのブロック分類に続き、山田はそれらにおける鉄鉱、石炭、石油、特殊金属などの資源の問題に入っていく。それらの中でも、石油は大東亜で全世界の生産量の三%に満たず、大東亜共栄圏の広大な地にはまだ発見されていない石油資源があるはずなので、現在の生産量を三、四割増やすことができるであろう。また石油の他にも大東亜における資源の有無が列挙され、その自給性も問われていく。しかし人的資源は大東亜共栄圏の中心にある、世界に誇るべき優秀な大和民族が担わなければならない。そして他民族、とりわけ南方民族がクローズアップされる。

 南方民族は、将来の南方開発に当つてわれわれと協力して大東亜の開発に当らなければならない人間であるにも拘らず、その文化程度が非常に低く、経済発達も後れ、知識も低い。何よりいけないことは、過去三百年、或は三百数十年に亙つて英米等の植民政策の結果として弾圧に弾圧を加へられ、何百年間といふものを生れながらの被統治民族として英米人の桎梏の下に置かれてをつた。この三百年間の統治によつて彼等が去勢されて了つたといふことであります。

 ここにきて、それなりに大東亜共栄圏における経済的な自給性と資源の問題をコアとし、各民族の共存共栄と世界の平和寄与から始まっていたにもかかわらず、ヒトラーの『わが闘争』のベースにすえられた生存圏の拡大、アーリア民族の優秀性、ユダヤ民族の劣等性といったアイテムを反復するに至ってしまったのである。経済的な自給性と資源問題はナチスの生存圏の拡大とリンクし、アーリア民族を大和民族、南方民族をユダヤ民族に置き換えている言説に他ならないからだ。おそらくこのような言説によって太平洋協会もまた成立していたことになろう。

わが闘争 上


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