前回はふれなかったけれど、土岐善麿は歌人としての土岐哀果の名前で、朝日新聞社入社以前の大正時代初めに『生活と芸術』を創刊している。この雑誌は『日本近代文学大事典』に立項があるので、それを抽出紹介してみる。
「生活と芸術」せいかつとげいじゅつ 文芸雑誌。大正二・九~五・六。全三四冊。東京市日本橋区檜物町九番地、東雲堂書店発行。大正初期新時代文学のさきがけとして、読売新聞記者で歌人の土岐哀果(善麿)によって創刊されたユニークな月刊誌。書店代表者の西村陽吉(辰五郎)が全巻を通じての発行名義人となった。(中略)
誌名は(中略)「現代の社会を究明し、そこに営む実生活を省察して、その感想を自由に表白したものが吾人の芸術でなければならぬ」という当時の土岐哀果の芸術観を示すもので、これが雑誌の性格をなした。哀果がこの雑誌を創刊し、主宰した動機は、明治四四年石川啄木と計画しながら啄木の病気によって挫折した、雑誌「樹木と果実」の実現にあり、またそのころ荒畑寒村や大杉栄の出した雑誌「近代思想」によって、思想的に刺激された生活感情を芸術的な方面に表現しようとしその発表期間を求めたことなどがあげられる。(中略)純粋の文芸雑誌というよりむしろ「近代思想」の僚誌ともいうべき文芸思想雑誌として成長、いちおうの目的を達し、歌壇的にも生活派の名を得たが、まもなく哀果の思想的ゆきづまりによって廃刊した。(後略)
この「生活と芸術」の第一号から第六号までが手元にある。もちろん実物ではなく、明治文献資料刊行会が昭和四十年に復刻したもので、その第1回配本分に当たる。その第一号の巻頭に哀果名で「われらの芸術」という詩文が置かれている。これは第一号だけのもので、他の号には見られないし、『生活と芸術』を創刊した哀果の心情を伝えていると思われる。また同誌の第一号の明細を示すよりも、これを紹介したほうが創刊の意図と時代状況を浮かび上がらせることになるだろう。それゆえに省略を施さずに引いてみる。
まづ、生きざるべからず。
われらは、みな、ひとしく富み、ひとしく幸ひにして、ひとしく生きんことを思ふ。
あるものは、そろばんをはぢくとき、
あるものは、はんどるをにぎるとき、はた、鎌をもつとき、
あるものは、ダイナモの響きの中に立つとき、
あるひは、ペンをとるとき、ペエヂをくるとき。
その労働は、いかなる方面にもあれ、
われらをして、ふかく、
われらの生活、われらの社会につきて、
おのおのしづかにかんがえ、省みしめよ。
しかして、
これを、真実に、自由に、あらはさしめよ。
しかして、
これをかりにすべて、われらの芸術とよばしめよ。
哀果の『生活と芸術』創刊意図はこれに尽きると考えていいし、編輯兼発行人は取次や書店との関係もあり、発行所は東雲堂としていることから、西村辰五郎となっているが、編輯所は生活と芸術社で、芝区浜松町の哀果の自宅である。これは同誌が同人雑誌ではなく、彼が編輯責任者で、寄稿者たちはそのサポーターにしてパトロンだったことを意味していよう。発行部数は千部から千五百部だったという。
さてここで「サポーター」や「パトロン」という言葉を使ったのは、それが寄稿者だけでなかった事実によっている。例えば、第一号の本文は六六ページだが、「生活と芸術広告目次」に「前付の部」と「後付の部」に示されているように、多くの広告が寄せられ、それらは双方で本文ページの半分以上の三七ページに及んでいる。それらは何れも一ページ広告だが、まず出版社以外を挙げてみると、白木屋呉服店、三越呉服店、帯留の大西白牡丹、和洋服箪笥の松本楽器があり、それに出版社の広告が続いている。
そのうちの、まとめて七ページを占める東雲堂を除き、版元と出版物を具体的に示してみる。
博文館 | 姉崎正治他編『高山樗牛と日蓮上人』 |
春陽堂 | 正宗白鳥『泥人形』などの「現代文芸叢書」 |
隆文館 | 小栗果然葉『黙従』 |
南北社 | 片上伸『生の要求と文学』 |
岡村書店 | 水野葉舟『郊外』他三冊 |
丙午出版社 | 高島米峰『噴火口』他四冊 |
以下は雑誌である。
中興館 | 『仮面』 |
近代思想社 | 『近代思想』 |
東雲堂 | 『青踏』 |
創作社、籾山書店 | 『創作』 |
歌舞伎発行所 | 『歌舞伎』 |
東京音楽学校学友会 | 『音楽』 |
忠誠堂 | 『新文村』 |
画報社 | 『美術新報』 |
竹柏会出版部 | 『心の花』 |
春鳥会 | 『みづゑ』 |
モザイク社 | 『モザイク』 |
とりで社 | 『とりで』 |
白日社 | 『詩歌』 |
洛陽堂 | 『白樺』 |
日本洋画協会出版部 | 『活生』『現代の洋画』 |
アララギ発行所 | 『アララギ』 |
東京堂 | 『想像』 |
昴発行所 | 『スバル』 |
また芸術座は第一回上演のメーテルリンク『内部』『モンナ、ワ゛ンナ』の広告を打っている。
もちろん賛助広告や交換広告なども含まれていただろうが、これらが『生活と芸術』の寄稿者や読者と同様に、サポーターやパトロンのような役割を果たしていたにちがいない。そのことだけでなく、大正初期のリトルマガジンが置かれていた出版環境と状況が見て取れるように思われる。また昭和初期円本時代のように出版市場は成立しておらず、『生活と芸術』、その他広告に見える様々なリトルマガジンが試行錯誤のうちに創刊され続けていたことをうかがわせている。
なお西村については、かつて「西村陽吉と東雲書店」(『古本探究』所収)を書いていることを付記しておく。
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