これも三十年ほど探していたゾラの三上於菟吉訳『貴女の楽園』を入手した。同書は『ボヌール・デ・ダム百貨店』の初訳で、大正十一年に天佑社から刊行されていたが、かつては数年に一冊しか古書市場に出ないという稀覯本で、古書価も数万円すると伝えられていた。
(『貴女の楽園』)
それは鹿島茂が『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書)において、最初から『ボヌール・デ・ダム百貨店』をテキストとして用い、論じていたことも作用していたと思われる。ところが大正時代の三上訳『貴女の楽園』以後、新訳が出されなかったのである。そのこともあってか、私が論創社版「ルーゴン=マッカール叢書」の『ボヌール・デ・ダム百貨店』(伊藤桂子訳)の編集に携わった時には、本の友社から復刻版も出され、それを参照したことを想起してしまう。
しかし本探索でずっと書いてきたように、これまで未見だったし、入手していなかった大正時代のゾラの訳書が次々と見つかるので、『貴女の楽園』も「日本の古本屋」で検索してみた。すると何と二冊もあった。それも二千円と千円の二冊で、函つきの二千円のほうを注文すると、ただちに届いた。函もまったく痛んでおらず、以前の所有者の愛書家ぶりを彷彿とさせ、一世紀前の出版物とは思えないほどだった。
『貴女の楽園』に関しては『近代出版史探索Ⅲ』402、流行作家、翻訳者としての三上については同435、彼が妻の長谷川時雨とともに出版者だったことは「夫婦で出版を」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収)などで既述している。それでも初めて『貴女の楽園』を手にするのは感慨無量というしかなかった。三上がよった英訳はどの版なのか不明だが、その邦訳タイトルはThe Ladies’ Paradise によっていることは明白だ。田山花袋もシカゴの同タイトルのLaird &Lee 版を読んでいたようだ。
この『貴女の楽園』の翻訳を通じて、日本においてもパリの消費社会が幕開けなったのである。前の所有者は中扉のところにAu Bonheur des Dames と原タイトルを書きつけている。冒頭における南仏からパリへやってきた三人の姉弟が「貴女の楽園」という近代的デパートと遭遇する場面を引いてみる。
『「貴女の楽園」』とジャンはすでに女性を慕ふ年齢になつた美少年のやうに、優しい笑を浮かべて読んだ。『美しい名だ―きつと客を引くでせうね―え?』
とは言へドニーズは、表の入口の陳列に心を奪はれて居た。街路に面した舗石の上には廉賣品の山があつた―いづれも誘惑的に通行人の目を惹き易い品であつた。毛織物や服地の端切れとか、メリメ羅紗、チエブイオツト羊毛織、スコツチ織などが、なごやかな、基盤目や、純碧色(そらいろ)の縞目を見せて旗のやうに吊つてあつた。そして大きな価格札は橄欖緑色を帯びて輝やかしかつた。確に大繁昌の店舗に違ひなかつた。建物は商品を詰め切れないで、戸外の舗石まで吐き出して居るやうに見えるのであつた。
そうか、造本の鮮やかなブルーはこの「純碧色」に由来するのかという気にもさせられる。このようにして、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」第十一巻『ボヌール・デ・ダム百貨店』は初めてお目見えすることになったのだ。いかなる意図で、三上が消費社会小説の嚆矢というべき『貴女の楽園』を翻訳するに至ったのかは不明だけれど、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」への強い執着から発していることは疑いを得ない。
それは版元の天佑社にしても同様で、奥付裏には松本泰訳『アベ・ムウレの罪』、三上訳『怖ろしき夢魔』『苦き歓楽』が既刊として並び、それに『近代出版史探索Ⅵ』1184の『酒場』も加わるわけだから、「叢書」の五作を刊行していることになる。それに同じ水上訳『労働』上、榎本秋村訳『沐浴』も入れれば、ゾラは七冊出版されたのである。またそこには本探索1205の八木さわ子訳のドーデ『プチ・シヨウズ』も見え、これがのちに岩波文庫化されたとわかる。
(『怖ろしき夢魔』) (天佑社版)
天佑社の創立者の小林政治に関しては拙稿「天佑社と大鐙閣」(『古本探究』所収)ですでに言及しているけれど、ここでは『日本近代文学大事典』の立項を挙げてみよう。
小林政治 こばやしまさはる 明治一〇・七・二七~昭和三一・九・一六(1877~1956)実業家、小説家。兵庫県生れ。号天眠。実業家だが文人らを物質的に援助し、とくに与謝野夫妻の後援者で、晶子に『源氏物語』の全訳をさせたことは意義深い。浪華青年文学会結成(明三〇・四)と「よしあし草」創刊(明三〇・七)に協力する。小説『難破船』(「少年文集」明二九・四)をはじめ、「よしあし草」「関西文学」「新小説」「万朝報」などに小説を掲載す。著書『四十とせ前』(昭一四・九 自家版)『毛布五十年』(昭一九・六 自家版か)あり。
これに付け加えれば、小林は中村吉蔵たちと知り合い、浪華青年文学会を結成し、『よしあし草』を創刊し、関西に新しい文学を芽生えさせる役割を果たした。『よしあし草』は明治三十四年に終刊となり、中村は上京し、『新声』の同人になっていたが、関西青年文学会は千二百人の会員を有しているのだから、将来の文学運動のための出版社を興すべきだと提案した。それを受けて、小林は会員有志百名近くを株主とし、大正七年に資本金十万円の株式会社天佑社を設立したのである。その範となったのは新声社=新潮社だったことはいうまでもあるまい。
(『よしあし草』)
ただ『貴女の楽園』の奥付発行者は小林ではなく、日岐久次郎となっているが、彼は支配人の立場の人物のように思われる。その後、真鍋正宏他編『小林天眠と関西文壇の形成』(和泉書院、平成十五年)が出され、そこに『四十とせ前』と『毛布五十年』の解読、小林と天佑社年譜、天佑社出版物一覧も収録されていることを知った。
[関連リンク]
過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら