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古本夜話1229 暁書院『小麦』と鄰友社『地』

 前々回の暁書院のフランツ・ノリス『オクトパス』は入手していないけれど、やはりノリスの犬田卯訳『小麦』は手元にある。これは上下巻で、昭和十七年に牛込区新小川町の片山量雄を発行者とする肇書房から刊行されている。

 しかし『小麦』を古書目録で見つけ、入手するまでは暁書院の『オクトパス』が未見だったこともあり、同書が『オクトパス』第二巻だとは認識していなかった。それに刊行の昭和十七年二月は太平洋戦争が始まってから三ヵ月後でもあった。つまり戦時下におけるアメリカ文学の翻訳だったことになる。そのことに関して、犬田は昭和十六年十二月二十日付の「序」の書き出しで表明している。

 「敵を知れ。」といふことは、啻に武力戦の場合に於てのみならず、経済戦においても、また文化戦線にあつても格守せらるべき重要な訓誡でなければならず、而してそのためには幾多の方法が、そして手段が数へられるであらうが、その国の内情を暴露した所謂「暴露文学」なるものもまた、その一方でなければなるまい。

 ここで犬田はアメリカという敵を知るために、『小麦』という「暴露文学」を訳出したと述べていることになろう。肇書房と発行者の片山量雄に関しては、巻末広告から同時期にモトラム著、美根安麿訳『東亜侵略隊—英国東印度商会秘史』を刊行していることしか知らない。だが奥付には配給元として日配の記載があるので、取次を通じて流通販売されていたとわかる。だが当然のことながら、戦時下におけるアメリカ「暴露文学」の売れ行きは難しく、ほどなく特価本として放出されてしまったようだ。私が入手したのは上下巻箱入りで、函には肇書房名は記されておらず、函背には特価二円とあった。定価は上巻が一円八十銭、下巻が一円六十銭であることからすれば、特価本業界による造り本と見なせよう。なお『オクトパス』完訳は、昭和五十三年に八尋昇訳で彩流社から刊行に至っている。

f:id:OdaMitsuo:20220109112235j:plain:h116 オクトパス: カリフォルニア物語  

 さてこれも奇妙な偶然ではあるのだが、ほぼ同時代の昭和十六年から十七年にかけて、ゾラの『大地』が武村無想庵訳『地』上中下巻として出されている。前回犬田が『大地』の最初の訳者であることにふれたが、無想庵は二番目ということになる。それにいずれもフランス装三巻本としてで、しかも上巻は四六判、中下巻は一回り小さいB6判といっていいのか、統一されておらず、ちぐはぐである。版元は発行者を本郷区湯島の脇屋登起とする鄰友社で、肇書房と同様にここで初めて目にするし、それらのプロフィルは定かでない。

f:id:OdaMitsuo:20220108175612j:plain:h105(上巻『大地』)f:id:OdaMitsuo:20220108175716j:plain(中下巻『地』)

 それでも肇書房と同じく、こちらも奥付に日配表記はあるし、中巻には『読売新聞』書評も転載されているので、それなりに好評だったのかもしれない、ちなみに下巻までのページ広告は新聞や雑誌のものを転載していると思われるので、それをそのまま挙げてみる。

 エミール・ゾラの傑作にしてその売行「ナナ」を凌げる書「地」(ラ・テール)はルーゴン=マッカール叢書の第十五巻目に当り、ゾラがその円熟の境に於てものした傑作である。 夙に世界農民文学の最高峰として喧伝せられ、我国の農民文学にも少からぬ影響を及ぼしてゐる、ゾラは大地を熱愛し、之に執着して骨肉互いに相争い、泣き、悶える一群の農民の生活を通して地上に生ける赤裸の人間の姿を描いた。人生を知る書として必読のものである。

 その『地』の挿絵は戦後になって、日本各地の民家を描き続けることになる向井潤吉が担い、『地』の物語の登場人物たちをくっきりと浮かび上がらせる役割を果たしている。向井と無想庵はフランスで知り合っていたと思われる。無想庵については山本夏彦『無想庵物語』(文藝春秋)が上梓されているし、私もかつて『大地』と無想庵に関連して「池本喜三夫と『仏蘭西農村物語』」(『古本屋散策』所収)を書いているので、ここでは繰り返さない。

無想庵物語 (文春文庫)   古本屋散策

ただ鄰友社と発行者の脇屋登記をめぐるアリアドネの糸についてはふれておきたい。それは奥付の検印紙に見えているものだ。その検印紙には上下に「NICHIDOKU SHOIN」と記され、中央左にふくろうが描かれ、そこにも「NID」があり、その右側に「武林」の印が押されている。これは「NICHIDOKU SHOIN」が鄰友社に他ならないことを意味していよう。それならばどうして鄰友社の名前で刊行に至ったのか。こうした事実は肇書房も同様かもしれないし、昭和戦前の翻訳史も版権の問題を含め、謎だらけのように思える。

 なお『大地』の三番目の訳者は岩波文庫版の田辺貞之助で、論創社版の私は四番目ということになる。

大地 (上) (岩波文庫)  大地 (ルーゴン=マッカール叢書)


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