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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1240 中央出版社の「仏教・精神修養書」

     
 本探索1209の「袖珍世界文学叢書」を刊行した中央出版社に関して、新たな発見があったので、それを書き留めておきたい。

 浜松の典昭堂で、背文字も定かならぬ一冊の裸本を目にした。何気なく手にしてみると、それは中央出版社から出された、日下敞道『加持祈祷真言秘密の解剖と其奥伝』であった。昭和五年十二月刊行、上製三三二ページ、定価一円八十銭で、発行者はやはり石田彦三郎だが、住所は「袖珍世界文学叢書」と異なり、本郷区湯島三組町と記されていた。

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 この日下のプロフィルは定かでないけれど、その著書の内容はタイトルといささか異なり、真言宗と弘法大師=空海に関する啓蒙書、もしくは本人が「序」で述べているように「解説」と見なしていい。それは巻末の「仏教・精神修養書類目録」にも明らかで、そこには五十冊以上のそれらが挙げられ、「袖珍世界文学叢書」の版元が「仏教・精神修養書」を主としていたことを教えてくれる。
 
 日下と同様に初めて目にする本多日生、山本勇夫、下村諦信、申原鄧州、土屋春堂、赤木健などに混じって、『近代出版史探索Ⅲ』512などの南条文雄『仏教より観たる人の一生』(十版)、『近代出版史探索Ⅳ』689の釈宗演『求めよ与へられ』(四版)も並んでいる。またそこには大内青巒の『人生の旅』(六版)を始めとする三冊も加わり、著名な仏教学者も中央出版社の著者、先の真言宗だけでなく、親鸞と真宗、日蓮と法華経、禅や観音信仰、一休や白隠珍話といったものにまで及んでいる。
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 それに意外に思われるもしれないが、大内は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

大内青巒 おおうち・せいらん]一八四五~一九一八(弘化二~大正七)秀英舎設立者。仙台生れ。一六歳で曹洞宗の僧となり、江戸に出て禅、漢学などを学ぶ。一八七五年(明治八)『明教新誌』を創刊。尊王奉仏大同団を結成するなど仏教興隆に力を尽くした。七六年(明治九)佐久間貞一、宏広海らと秀英舎を設立、木版印刷の『明教新誌』を活版印刷とし、『改正西国立志篇』『東京横浜新聞』などの受注で経営基盤を確立した。一九三五年(昭和一〇)日清印刷と合併、大日本印刷株式会社と改称。また一八八一年(明一四)鴻盟社を興し、『中外郵便週報』を創刊した。一九一四年(大正三)東洋大学学長に就任。『碧厳録講話』『原人論講義』などの著書がある。

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 これに少しばかり補足すれば、佐久間のほうは明治二十三年に大日本図書の創立にも関わり、後の新潮社の佐藤義亮は明治二十八年に秀英舎の印刷工となり、翌年に文芸雑誌『新声』を創刊するに至る。つまり大内と秀英舎は明治近代の出版社の誕生を促す環境を整備したことになろう。また拙稿「高楠順次郎の出版事業」(『古本屋散策』所収)で挙げておいたように、大正時代は仏教書出版ルネサンスとでもいうべきで、多くの仏教原典シリーズが刊行されていたが、これも大内と秀英舎を抜きにしては成立していなかったであろう。

古本屋散策

 そしてとりわけ『近代出版史探索Ⅳ』で多く言及しているけれど、明治三十二年の仏教清徒同志会の結成と『新仏教』の創刊、それらのムーブメントに伴う高嶋米峰の丙午出版社を始めとする仏教書版元の誕生がある。しかもそれらの出版は仏教書原典ばかりでなく、「仏教・精神修養書類」にまで及んでいた。

 しかしそうした仏教書トレンドは大正時代が全盛で、関東大震災によって出版社も大きなダメージを受けたこともあり、多くの「仏教・精神修養書」は譲受出版の対象となっていたのではないだろうか。それに大内にしても釈にしても、大正時代に鬼籍に入り、南条もそれは昭和二年であるから同様であろう。つまりいってみれば、版元も消滅し、著者たちも亡くなって、「仏教・精神修養書」が多く残されたことになり、それらを一括して譲受出版したのが中央出版社だったと思われる。

 しかもそれらの書籍は「袖珍世界文学叢書」と同様に、出版社・取次・書店という近代出版流通システムに依拠していたのではなく、特価本業界特有の高市や露店市場に向けて刊行されていたと考えられる。定価の一円八十銭は円本時代以後としては高いし、その版元出し正味に合わせて設定したもので、おそらく半額以下で売られていたのではないだろうか。

 『東京古書組合五十年史』は明治末期から大正初期にかけての古書業界が神田を中心にして発展する一方で、下町状況に関しても言及している。それは上野御徒町、浅草、両国、本所、人形町などでの新しい店の出現、それらがほとんど露店から出発していると述べている。また同書の口絵写真には昭和十年ごろの「銀座裏通りの露店」も掲載され、「露店の古本屋」という章も設けられ、とても興味深い。

 だがそうした露店の古本屋にしても、昭和三十年代に祭の縁日に月遅れ雑誌が売られていた光景を見ている私たちの世代を最後にして、もはや思い出されることもないだろう。しかしそれは昭和三十年代までは全国的な祭典を伴う高市に見られたわけだから、譲受出版の市場も想像以上に大きなものだったように思われる。

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