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古本夜話1262 藤沢桓夫『新雪』と南進論

 前回の改造社『プロレタリア文学集』に藤沢桓夫の名前があることは意外に思われたが、「生活の旗」を始めとする七つの短編を読んでみると、彼がこの時代において紛れもないプロレタリア作家だったことを実感した。

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 藤沢のことは『近代出版史探索Ⅱ』283でふれているし、その『大阪自叙伝』(朝日新聞社)も読んでいるけれど、彼が当時『戦旗』同人で、日本プロレタリア作家同盟に属していたことは失念していたのである。

 

 それだけでなく、中学時代に安岡章太郎の『アメリカ感情旅行』(岩波新書)を読んだついでに、第三の新人を中心とする交遊録『良友・悪友』(新潮社)にも目を通し、そこに藤沢の名前を見出していたことにもよっている。つまり藤沢は第三の新人たちの系列に属するとインプットされてしまったからだ。

アメリカ感情旅行 (岩波新書) f:id:OdaMitsuo:20220405221539j:plain:h120

 それは最初の「二代目たち 三浦朱門と石浜恒夫」においてで、石浜の父親は京大文学部教授、同居している伯父は藤沢であり、石浜家そのものが関西文壇の一角とされ、三浦は安岡にいうのだった。「藤沢桓夫の『新雪』って小説、あれは石浜の家がモデルになっているんだぜ。あの中で、ほら映画だと月丘夢二の弟になる旧制高校生が出てくるだろう。あれが、つまり石浜のことなんだよ」と。

 それを受けて、安岡は『新雪』が戦時中に出た「ほとんど唯一の明るい家庭小説として評判にな」り、新聞連載も読み、映画も観ていたと述べていた。もちろん当時は石浜も藤沢も知らなかったけれど、藤沢が「明るい家庭小説」家のような印象をもたらし、それが記憶に残っていたことなる。それから三十年後の平成時代になって、古本屋で『新雪』に出会ったのである。カバーなしの裸本で、背ははがれ、造本も崩れた状態の一冊で、奥付には昭和十七年六月発行、二万五千部と記されていた。この小説は藤沢の代表作と見なされているようで、『日本近代文学大事典』の藤沢の立項にはその解題が挙げられていることもあり、それを引いてみる。

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 [新雪]しんせつ 長編小説。「朝日新聞」昭和一六・一一・二四~一七・四・二八。昭和十七・六、新潮社刊。のち大映で映画化された。神戸の郊外六甲に隠棲する老洋学者湯川文(ママ)亮の一人娘保子、愛弟子の正木信夫、小学教師の蓑和田良太、結婚なんか考えたこともないという女医の片山千代らが織りなす清潔なラブ・ロマンス。戦時色が濃厚だが、わずかに小学教師の解放的な児童観のなかに、自由主義思想の息吹が感じられる。

 この小説を読んだ後で、しばらくして水島道太郎、月丘夢二主演、五所平之助監督のビデオ映画も観ることができた。これは昭和十七年の映画化で、戦時色に包まれてはいるけれど、原作と通底するみずみずしい秀作のイメージがあった。安岡が証言しているように、新聞連載も好評であり、完結と同時に出版と映画化も決まっていたと推測され、初版二万五千部もただちに売り切れ、版が重ねられ、ベストセラーに近かったのではないだろうか。

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 小説のほうに戻ると、この一文を書くために『新雪』を再読したのだが、この小説もまた『近代出版史探索Ⅳ』678などの南進論の延長線上にイメージされた世界を想定して書かれた物語のように思えてくる。老学者の湯川と弟子の正木は東洋言語学者で、主として満州語を専攻のようだが、後者は前者の推薦によって、ある出版社の「大東亜ポケット会話辞典叢書」の『蒙古篇』と『フイリツピン篇』の二冊を書き上げる仕事に従事していた。それは『近代出版史探索Ⅴ』883の大学書林の『馬来語四週間』を彷彿させる。

 その『フイリツピン篇』に関連して、大東亜戦争の展開に伴い、湯川が正木も加えて、南方学術調査国語学者班が結成され、現地での言語政策と南方言語の調査研究・翻訳通弁などの組織的な遂行を目的としていた。それに対して、正木を慕う湯川の娘の保子も助手として同行することになった。そこで保子は父に問いかけるのだった。

 「お父様、赤道にも雪があるでせうか?」
 何かうつとりとした表情で、保子はだしぬけにそんなことを訊ねた。何故だか知らないが、彼女の心の視野には、その時、その熱帯の紺碧の空を遠く遮つて、高く険しく聳えてゐる山の姿がうかんだのだ。しかも、その山の頂には雪が眩しいまでに白く輝いてゐる。

 そして父のほうは「東亜の護りである日の丸の旗が赤道の空の頂に大洋の彼方の侵略者たちを睥睨して翩翻とひるがへつてゐる光景」を思い描き、娘は「その永遠に新しい雪谿   に跪いて雪の一ひらを両手に掬つた時の清冽な歓び」を感じていたのである。これが「新雪」というタイトルのよってきたるべき由来であり、そのようにして三人は南方へと出発していくのだ。「新雪」という南方幻想の現実は問われることなく、この大東亜戦争下の物語は終わる。

 そこには『戦旗』同人や日本プロレタリア作家同盟に属していた藤沢の残影はほとんど見られない。その巻末広告に、やはり藤沢の『大阪五人娘』、同じく藤森成吉『純情』や壺井栄『磨』も挙がっているので、それらもいずれ読んでみたいと思う。


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