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古本夜話1286 聚英閣「新人会叢書」と若山健治訳『無政府主義論』

 本探索1283で聚英閣のチェネェ『劇場革命』を取り上げたが、この版元に関しては同1236のタイトルで示しているように、聚英閣と並べて言及してきたこともあり、ここでやはり聚英閣のほうにもふれておこう。 それはこの出版社も左翼文献と無縁であるどころか、大正時代には東京帝大の新人会と関係が深かったようで、「新人会叢書」や「新人会学術講演集」を刊行している。前者は五冊まで確認しているので、それらを示す。

劇場革命

1 ヘツカア 波多野鼎訳 『ロシア社会学』
2 ベルンシユタイン 嘉治隆一訳 『修正派社会主義論』
3 プルードン 新明正道訳 『財産とは何ぞや』
4 エルツバツヘル 若山健治訳 『無政府主義論』
5 アントン・メンガア 河村又介訳 『新国家論』

 (『(財産とは何ぞや』)

 これらのうちで入手しているのは裸本の4だけだが、奥付のところに赤インクで「発売禁止」と書きこまれている。しかし『発禁本Ⅲ』(「別冊太陽」)にはほぼ同じ書名の久津見蕨村『無政府主義』(平民書房、明治四十三年)は見出せても、この翻訳書はない。

発禁本 (3) (別冊太陽)

 それはさておき、こちらの『無政府主義論』には「新人会叢書につきて」という宣言にも似た一文が掲げられているので、それを見てみると、この「叢書」は「第十九世紀このかた高貴純潔なる社会運動の闘士たりし西欧革命文人の、熱意と聰明とに溢るゝ改革の文献」で、「其範囲は社会学、政治学、経済学、社会哲学の各種に渉る」とある。

 そうしたコンセプトに基づくのか、『無政府主義論』は「訳者小序」として、ゴドウィンからトルストイまでの無政府主義思想家七人の思想、及び「学説の実現手段」などを論じ、無政府主義に関する一般的誤解を一掃し、「正確なる科学的概念」を与えようとするものだと言明している。そうはいっても、内容は晦渋な啓蒙書の色彩が強い。それでも「発売禁止」となったことは大正十年の翻訳書においても、無政府主義=アナキズムは大逆事件の呪縛がずっと続き、タブー的イメージの中にあったことを物語っているのだろうか。検閲への配慮を示す空白削除の部分もかなり目立つことは、吉野作造と新人会のデモクラシー理念を表象しているように思われるけれど、「発売禁止」は避けられなかったのである。

 訳者の若山もここで初めて目にするし、新人会の慣習と検閲に備えた仮名のように思われたが、幸いなことに『日本アナキズム運動人名事典』には訳者が立項されていたので、それを示す。
日本アナキズム運動人名事典

 若山健治 わかやま・けんじ 1899(明治32)4・14-1986(昭61)10・21 本名・黒田寿男 岡山県御津群金革町(現・御津町)に生まれる。東京大学法学部に在学中、新人会に参加し、『ナロオド』の編集にあたる。21年5月「新人会叢書」の第4集として、エルツバツヘル『無政府主義論』も、若山健治の筆名で翻訳、同書はあらかじめ多くの部分を伏せ字にしておいたにもかかわらず、発禁になった。戦後、90年伏せ字をおこし、黒色戦線社から復刻されている。黒田は合法左翼の指導者として学生運動、農民運動、政治運動で活躍、長く国会議員をつとめた。若い頃から「弁護士的社会主義者」とよばれたという。

 この立項は大澤正道によるものだが、おそらく「発禁になった」聚英閣版は見ておらず、黒色戦線社の復刻版によって書いている。前者では「新人会叢書」第四編で、「第4集」となっておらず、また先述したように、「伏せ字」ではなく、空白削除処理が施されているので、大澤の記述は黒色戦線社復刻版に基づいてだと判断できる。ただ私にしても、黒色戦線社版は見ていないこともあり、推測ではあるのだが。

 他意はないけれど、こうした書誌的なことだけでも、人名事典などのデータの確認と記述の難しさを実感してしまう。それに若山の場合、『近代日本社会運動史人物大事典』では黒田寿男の本名で立項され、しかもそれは一ページ近くに及び、『日本アナキズム運動人名事典』どころではない扱いになっている。それにもかかわらず、若山としての『無政府主義論』の翻訳はまったく言及されていないし、そこにはその翻訳が代訳だという含みもこめられているのかもしれない。その代わりのように、農民運動に寄り添う弁護士、政治家といった側面がクローズアップされ、戦後は社会党最左派の長老として「黒田派」をひきい、衆議院議員当選12回とある。

近代日本社会運動史人物大事典

 念のために、『近代日本社会運動史人物大事典』に先行する『[現代日本]朝日人物事典』を引いてみると、こちらは分量的に前者の三分の一ほどだが、やはり黒田の社会主義運動家、政治家としての言及に終始していて、前者の祖型となったように思われる。あらためてこれらの三種の人名事典の刊行をたどると、『[現代日本]朝日人物事典』が平成二年、『近代日本社会運動史人物大事典』が同九年、『日本アナキズム運動人名事典』が同十六年で、いずれも平成を迎えての出版だから、必然的に昭和の記憶の印象が強い。それは当然のことながら、戦前の平凡社の『新撰大人名辞典』(復刻『日本人名大事典』平凡社)と異なる色彩で、人物、人名事典なども否応なく社会と時代のパラダイムの中において、取捨選択された人物たちも様々な社会的ポジション、思想や風俗などの記号を付され、立項編纂されていくことを物語っていよう。

日本人名大事典 (『日本人名大事典』)

 しかもそれは現在、「ウィキペディア」のようなデジタルアーカイブとしても出現しているわけだから、すでに昭和の記憶に包まれた人物、人名事典なども駆逐されていくことになるのだろうか。

odamitsuo.hatenablog.com


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