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古本夜話1300  IWW、ビル・ヘイウッド、吉原太郎

 『近藤栄蔵自伝』には暁民共産党事件と相前後して、ビー・グレー事件が起きたことへの言及がある。この事件に関しての詳細は近藤にしても判然としないし、実相はつかめないとされるけれど、次のようなものだった。

 前回の反軍プロパガンダに対する警視庁特高課の捜査によって、大正十年十月に横浜でビー・グレーという外人が取り調べられ、彼が上海から数万円を所持して来日し、それが日本の共産党組織運動のための資金だと判明した。このビー・グレー事件は近藤の『コムミンテルンの密使』でも語られているが、まさにビー・グレーは謎めいた「コムミンテルンの密使」ということになろうか。ただこの事件は『日本近現代史辞典』などにも見当らず、ビー・グレーにしても同様である。しかしこのビー・グレーが日本から追放されると同時に、上海へ渡り、日本共産党の代表と称し、資金を得て帰国し、そのまま行方不明になってしまった人物がいて、それがさらにビー・グレー事件を謎めいたものにしている。

  

 その人物とは吉原太郎で、IWWの首領ビル・ヘイウッドの関係者である。ヘイウッドとその自伝『闘争記』は拙稿「小田律と天人社」(『古本探究Ⅲ』所収)で、IWWに関してはこれも「IWWについて」(『近代出版史探索外伝』所収)ですでにふれている。IWWは世界産業労働者同盟のことで、ヘイウッドはその創立メンバーにしてラディカルな労働運動家だった。もちろん本探索1287の『エマ・ゴールドマン自伝』にも出てくる。なお『闘争記』 の訳者は前回の暁民共産党の高津正道で、もう一人の共訳者はシンクレア『オイル!』と同じポール・ケートだが、プロフィルは不明である。荒畑寒村は『寒村自伝』(筑摩書房)において、吉原はヘイウッドの傘下にあって、やはり謎めいた人物で、コミンテルンから資金代わりに得た数十のダイヤモンドを所持していたと証言している。

闘争記―I.W.W.首領ヘイウッドの手記 (昭和5年) 近代出版史探索外伝 エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 石油!

 この吉原のほうを近藤の証言から引けば、「一見したところヤクザの親分といった感じのする男」で、IWWに属して、アメリカ各地の「血みどろな闘争」に参加し、ロシアに渡り、片山潜と連絡をとり、コミンテルンから日本の共産党運動を促進するように命令された。そしてその資金として宝石一袋をもらってきたけれど、途中で泥棒に盗まれてしまったという話で、IWWはともかく、コミンテルンや宝石の件は保証の限りではないとの観測だった。だが吉原は堺や山川にしきりに接近し、取り入ろうとしていたのである。

 その後の吉原に関して、江口渙が『続わが文学半生記』(新日本文庫)で、コミンテルンの資金の日本人領収書が警視庁の手に入っていたという事実にふれている。

(青木文庫版)

 (前略)という驚くべき奇怪な事実の裏には、当時の有名な国際的スパイ吉原太郎の動きがあったことを見おとしてはならない。吉原太郎はもとはアメリカの革命的労働組合I・W・Wに加盟していた。確か一九一九年頃だと思う。片山潜がアメリカからソヴェトにはいったあとを追って彼もまたソヴェトにはいった。もうそのときは日本の参謀本部のスパイになっていた。その上、ソヴェトにはいると、たちまちゲー・ぺー・ウーのスパイにもなった。そして相方の秘密情報を一人で売ったり買ったりしていたのだ。一九二一年には日本に帰ってきていた。それから後は東京と上海を股にかけて、いよいよ国際スパイとしての怪腕をふるい、日本の革命運動の中に金に汚れた黒い手をふかくつっこんでさんざんひっかきまわした。彼は額に刃傷のあるにがみ走った美男である。一九二二年の春に高津正道たちが検挙された暁民共産党事件も、吉原太郎にスパイされたのであり、高尾平兵衛が赤化防止団を襲撃して逆に防止団長米村嘉一郎にピストルでうち殺された事件も吉原太郎にそそのかされたのである。その後、大庭柯公がソ連で彼の手にかかったものだと言われている。

 また江口は吉原に「一パイ喰わされた者」はかなり大勢いるとも述べている。ヘイウッドもアメリカ代表として、第二回コミンテルン大会に出席し、ずっとソ連に滞在していたことで、吉原もソ連に信用されたのであろうと推測している。ヘイウッドも片山と同じく、続けてソ連で亡くなっているので、吉原は二人が生み出した倒錯的スパイだったといえるかもしれない。ロシア革命において、ボリス・ニコライェフスキー『革命のユダ アゼーフ』(荒畑寒村訳、現代思潮社)、ロマン・グーリー『アゼーフ』(神崎昇訳、河出書房新社)が表象しているように、革命下における奇怪なダブルスパイ的存在を知っている。吉原もまた日本のアゼーフに位置づけられるだろうし、それは後に近藤栄蔵が国家社会主義者に転向していく軌跡とも重なっていくようにも思われる。

アゼーフ―革命のユダ (1970年)


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