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古本夜話1301  高橋亀吉の履歴書

 『近藤栄蔵自伝』で、片山潜の在米日本人社会主義者のメンバーに高橋亀吉が挙げられているのを初めて知った。高橋の名前を目にしたのはかなり前のことで、確か谷沢永一の『完本紙つぶて』(文藝春秋、昭和五十三年)においてだったと思う。

完本・紙つぶて―谷沢永一書評コラム 1969ー78

 あらためて『紙つぶて(完全版)』(PHP文庫、平成十一年)を確認してみると、昭和「51・.2・25」付の「経済学教科書を捨てよ現実を視よ」で、「大正末期以来の経済現象を最も現実的に洞察してきた」「独学在野エコノミスト」としての「高橋亀吉著作集の編纂が望まれる」との言及があった。その後実際に『高橋亀吉著作集』は刊行されなかったにしても、講談社学術文庫に『昭和金融恐慌史』『経済学の実際知識』が入ったので、そのうちに読むつもりでいたが、紛れてしまい、現在に至るまで読まないままで時が流れてしまった。

紙つぶて(完全版) (PHP文庫)  昭和金融恐慌史 (講談社学術文庫)   経済学の実際知識 (講談社学術文庫)

 そうしたところに久しぶりに高橋の名前を目にしたことになり、彼がアメリカの片山の近傍にいたことを教えられたのである。そこで確か高橋の自伝に類するものが日経新聞社編『私の履歴書』にも収録されていたことを思い出し、探してみると、その第十三集に見出されたので、それを読み、その「履歴」を知ることになった。彼の「履歴」をたどってみよう。

 高橋は明治二十四年山口県都濃郡に生まれ、父は和船の小造船業を営んでいた。彼は左足に障害があったので、船大工はできず、家業も衰退しつつあり、商人として身を立てるつもりでいた。そこで三十九年に大阪の袋物問屋に丁稚奉公に出て、その一年後には一旗揚げたいと考え、朝鮮の城津に向かい、押しかけ店員のかたちで、居留日本人の日用品と守備隊用足の二田商会に入った。折からの日露戦争に乗じ、電信線の架設請負や朝鮮語通訳もこなすようになり、城津商話会模範店員の表彰を受けるまでになったが、小店経営は大商社にかなうはずがないこと、また大資本を扱う商人でなければ、商人らしい活動はできないことを自覚した。そのためには大学に入り資格を得るしかないと考え、たまたま新聞広告で早稲田の通信商業講義録(二年課程)を終えれば、英語の試験だけで入学できることを知った。それは明治四十二年のことで、彼は十八歳だった。

 高橋は高等小学校三年時に夜学で英語の手ほどきを受けていたので、英語の独学の自信はついていたが、問題は学資の貯蓄と勉強時間の捻出だった。しかしそれらもクリアし、入学試験にも合格し、その上一年半後の進級試験は商科予科で首席を占め、特待生となったのである。また高橋は中学校にいかず、実際に商業の実務、経済活動の体験を経たことは後にどれだけプラスになったか計り知れないとも述べている。卒業後、戦争成金会社の筆頭の久原鉱業に入社したが、大正七年に恩師の尽力で東洋経済新報社に転身し、経済記者となった。

 当時の東京経済新報社は社長兼主幹が三浦鉄太郎、編集長が石橋湛山の名コンビだったが、経済記者の社会的評価は低く、物質的にも恵まれないにもかかわらず、社内はリベラルで、居心地もよかった。そして経済記者としても時の問題に取り組み、それを研究し評論する努力を重ねる中で、生きた真の経済理論を身につけることができるという希望を持つに至った。当時は第一次世界大戦を背景として、従来の経済理論では説明できない一大変革期だった。そうして「町学者」の立場で書き上げたのが先述の経済の応用問題としての『経済学の実際知識』に他ならない。

 そして第一次世界大戦後の大正八年十一月に東洋経済特派員として、一年四カ月の欧米視察に赴くことになった。

 出発に際し、三浦、石橋両氏から、ニューヨークの片山潜氏あての紹介状をもらった。もと、片山氏は東洋経済記者として両氏と親しかった友人であり、片山氏のもとに行けば、三等旅行する方法を教えてくれるであろうとの配慮であった。こうして片山潜氏と知り合ったことが、のちに私を社会運動に導く契機となった。
 私がニューヨークについたのは大正八年のクリスマス前であったが、間もなく一月元旦のレッド(赤)のアレスト(逮捕)で片山潜氏は地下にもぐった。私は潜氏が共産党と関係のあることをはじめて知った。しかし、一週間に一度ぐらいは現われて、同時の田口運蔵君(のちにモスクワに行き、ソ連代表として最初に来日したヨッフェ氏を案内して帰国した人)と中華料理を食べながら話し合っていた。私は、その田口君の下宿に片山氏の紹介で同宿していたので、しばしば同伴して雑談したが、片山氏はしきりに日本の実情を聞き、批判したものであったが、そこに現われた片山潜氏は熱烈な愛国者であり、親切な好々爺であって、別れに際しては、欧州諸国の友人に紹介状をくれた。(後略)

 これが高橋の側から語られた片山と田口が絡むアメリカ体験であり、そのニューヨーク滞在は四ヵ月だったとされるが、さらなる贅言は慎もう。それでも付け加えておけば、このアメリカ体験が高橋を日本資本主義の実情と研究をふまえた社会運動へと導き、そのためのテキストとして、社会主義陣営でも『経済学の実際知識』が読まれるようになった。

 一方で大正十四年に普通選挙も議会を通り、昭和三年にその実施が予約され、社会運動は政治的発言を得ることになる、無産政党運動が台頭してきた。そこで政治研究会が設立され、無産政党の政治組織、綱領の研究がすすめられ、高橋はその中央委員兼調査部長に選任されたが、共産党の策謀により、綱領研究会に出席権がないとされ、政治研究会から脱会するに至った。

 この前後から『中央公論』『改造』『解放』などの総合雑誌で、日本資本主義の現状をめぐって高橋と共産党員との論争が始まり、彼は反左翼的社会運動に巻きこまれ、大正十五年に平野力三によって結成された日本農民党の顧問、後に会長となった。そして昭和三年の普選第一回の総選挙に安部磯雄、大山郁夫と並ぶ無産党の一人として立候補したが、次点で落選した。それからも様々な政治的策謀に巻きこまれ、高橋は社会運動家、政治家は自分に合わないことを痛感し、「足を洗うことにした」のである。

 こうした高橋の個人史と社会運動史は片山との接触を通じてリンクしたと推測されるが、それはこれまで見てきたように、現実の政治に翻弄され、挫折したと見なすべきであろう。


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