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古本夜話1328 上野英信編『鉱夫』と新人物往来社『近代民衆の記録』

 前回の最後のところで、本探索で続けて言及してきた田口運蔵、片山潜、近藤栄蔵、永岡鶴蔵たちと加藤勘十が社会主義運動史において、炭鉱と鉱(坑)夫というラインでつながり、そこにゾラの『ジェルミナール』の翻訳も必然的にリンクしていたことにふれておいた。

ジェルミナール

 それらに関連して、戦後の出版ではあるけれど、ここで上野英信編『鉱夫』のことも書いておきたい。この一冊は資料集として後述する宮嶋資夫『坑夫』のテーマとも密接な関係にあるし、まさに日本近代の社会主義運動史のひとつの水脈ならぬ「鉱脈」を形成しているからだ。これは余談だが、西部劇のひとつのテーマが金鉱探しであることは、同じく近代の表象ともなっていよう。

 (『坑夫』)

 実は『近代出版史探索Ⅵ』1180などのゾラの『ジェルミナール』の新訳を試みるにあたって、炭坑や鉱(坑)夫について無知だったことから、上野英信の『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑いばなし』(いずれも岩波新書)から始め、翻訳に際しては常に『鉱夫』(昭和四十六年)と山本作兵衛画文『筑豊炭坑絵巻』(葦書房、同四十八年)を座右に置き、その記録と描かれた絵を参照しながら進めたのである。しかもこの二冊の刊行はほぼ同時期で、後者の出版も上野の支援によることを教えられた。
 
追われゆく坑夫たち (岩波新書) 地の底の笑い話 (岩波新書) 近代民衆の記録〈2〉鉱夫 (1971年)  

 前者は昭和四十六年に新人物往来社から刊行され始めた『近代民衆の記録』の一冊である。その刊行に際し、宮本常一は「近代民衆と記録」という一文を寄せている。

 明治になって民衆も文字を学ぶことを義務づけられたのだが大正時代までは貧しくて学校へ行けない者がまだ多かった。その人たちが文字を学ぶために苦労した話はいまでも方々で聞くことができる。その文字で書かれたものが丹念にさがせばまだいくらでも残っているであろう。明治、大正時代の人びとはどのように生きたかということを学者やジャーナリストたちの筆によって語らせるのではなく、これらの民衆の資料に語らせることによって、そこに本当の民衆の姿がうかび上がって来るのではないかと思う。

 これは宮本が『近代民衆の記録』の発刊にあたって寄せた内容見本用の推薦文と見なせようが、帯裏に記されたもので、散逸してしまうかもしれず、あえてここに引いてみた。続けてその編者とリストも挙げておく。

1  松永伍一編 『農民』
2  上野英信編 『鉱夫』
3  谷川健一編 『娼婦』
4  林英夫編  『流民』
5  谷川健一編 『アイヌ』
6  山田昭次編 『満州移民』
7  岡本達明編 『漁民』
8  大濱徹也編 『兵士』
9  古田秀秋編 『部落民』
10 小沢有作編 『在日朝鮮人』

  近代民衆の記録〈7〉漁民 (1978年)

 このシリーズは3の『娼婦』と5の編著が谷川健一であることを考えれば、彼によって企画され、新人物往来社に持ちこまれ、同社から刊行されたことになる。谷川は平凡社時代に『日本残酷物語』全五巻(のちに現代編二巻を追加)を編集し、宮本もその監修者の一人であった。『平凡社六十年史』『日本残酷物語』の昭和三十四年の新聞広告が掲載されているが、そのキャッチコピーには「流砂のごとくこの国の最底辺に埋もれた人々の物語」とあった。

  

 このような『日本残酷物語』のコピーと『近代民衆の記録』が通底していることはいうまでもないし、前者の個別的物語がそれぞれの記録の集積として意図されたのであろう。しかし新人物往来社の前身の人物往来社は昭和二十六年に八谷政行によって歴史出版社として創業されているが、『近代出版史探索Ⅵ』1092で既述しておいたように、同四十三年頃に危機に陥り、会社更生法を申請したはずだ。それに伴い、先の拙稿で挙げた「幕末維新史料叢書」などの刊行は中絶してしまったし、まだ編集の段階にあり、刊行に至っていなかった『近代民衆の記録』にしても、出版中止の危機に追いやられたと思われる。

 だが昭和四十年代半ばにあって、このような史資料出版は本探索1278のみすず書房『現代史資料』ではないけれど、現在と異なり、書店外商などを通じて図書館、学校といった確実な職域需要があったはずで、人物往来社から新人物往来社へと引き継がれたことになる。それは当初の第一期五冊が第二期五冊の刊行となったことによって明らかだし、また管財人を引受け、『鉱夫』の発行者となった菅貞人の理解によっているのだろう。

 『鉱夫』の内容への言及が後回しになってしまったし、その詳細は挙げられないが、A5判上製、二段組六百余ページにはここでしか読むことのできない炭坑、鉱(坑)夫をめぐる記録がぎっしりと詰め込まれ、夏目漱石の『坑夫』(『朝日新聞』明治四十一年連載、新潮文庫)にしても、このような炭鉱からもたらされたのだと実感したことを思い出す。もちろんそれらの資料参照がどれほど翻訳に反映されているかは判断できないが、『ジェルミナール』の新訳がそのようにして進められたことだけは付記しておきたい。

坑夫 (新潮文庫)


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