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古本夜話1356 スタンダール、阿部敬二訳『アンリ・ブリュラールの生涯』、冨山房百科文庫

 宮嶋資夫の自伝といっていい『遍歴』には男女、有名無名を問わず、多くの人たちが登場している。しかし書かれたのは戦後の昭和二十五年だが、たどられているのは大正から昭和戦前のことなので、プロフィル不明の人物も少なくない。ないものねだりになってしまうけれど、『宮嶋資夫著作集』(慶友社)収録にあたって、注を付してほしかったと思ってしまう。ただ発行者は宮嶋秀で、『東京に帰す』を『遍歴』とあらためた編集者でもあり、この著作集が宮嶋の子息によって実現したと考えられるので、それだけでもオマージュを捧げるべきだろう。

宮嶋資夫著作集 第1巻

 それはひとまずおくとしても、プロフィル不明の一人に阿部敬二がいて、これは宮嶋のアル中時代のことだから、昭和十三年頃のことだと推測される。

 私の家には、阿部敬二がよく訪ねてきて共に飲んだ。その中に彼は突然に頭の工合が変になつた。ある朝私の家に来て、大衆党のクーデターが始まつたと言ひ出した。自分にはそれが聞えて来る、と彼は言ふのである。かと思ふと、向ひの二階家に友人の伊藤虎雄が監禁されてゐる。救ひ出すから日本刀を貸せと言ふ。私は思案に余つて彼を戸外に連れ出した。往来の門前で里芋を売つてゐる男を見ると、彼も大衆党のスパイだ、と言ふのである。
 暑い日であつた。が歩いて、大久保の友人の家まで行つて休んで氷水を飲んだら彼はやや落着いた。そしてその後間もなく回復していまはすつかり健康である。

 この「大衆党」とは昭和七年に全国労働大衆党と社会民主党が合同して結成された社会大衆党をさしていると思われるが、阿部だけでなく、伊藤虎雄もここで初めて出てくるし、両者ともよくわからない人文なのである。ただ阿部の言動だけでも、彼も宮嶋がいうところの「この時代は世を挙げて、酒狂ひしてゐた」アル中の一人だったことは明らかで、宮嶋の同世代に他ならないことは伝わってくる。

 そして『遍歴』が閉じられようとする昭和二十四年の東京逓信病院での胃潰瘍手術と入院に際して、阿部の見舞いにふれ、「彼はスタンダールの『アンリ・ブリュラールの生涯』の訳者である」との言及に出会う。ここでようやく阿部がフランス文学者だったとわかる。だがこの死後出版されたスタンダールの自伝的作品は『スタンダール全集』(人文書院)の桑原武夫、生島遼一訳だけだと思っていたので、阿部訳の存在は初めて知らされてことになる。

 そこで『明治・大正・昭和翻訳文学目録』を繰ってみると、確かに阿部訳だけが挙げられていたが、それは昭和二十二年の新樹社版であった。宮嶋の『遍歴』執筆は二十四年とされるので、確かに符合する。しかし新樹社は戦後の創業で、戦前の翻訳の重版が多いことを考え、さらに調べてみると、昭和十五年に「冨山房百科文庫」の一冊として刊行されていたとわかり、「日本の古本屋」で検索し、入手することができた。

 (新樹社)

 送られてきた『アンリ・ブリュラールの生涯』は「冨山房百科文庫」115で、そのリストが巻末に付録されているので、先に見てみると、この「百科文庫」が翻訳書の盲点だったことに気づかされた。未知の翻訳書を少しだけ挙げてみると、ハツクスリ、林正義訳『ジオコンダの微笑』、ゲーテ、石中象治訳『ゲーテ箴言集』、シラー、藤澤古雪訳『オルレアンの少女』、メリデイス、繁野天来訳『エゴイスト(白我狂)』、後藤末雄他訳『フランス短篇小説集』Ⅰ、Ⅱなどである。

(『アンリ・ブリュラールの生涯』)(『ジオコンダの微笑』)(『エゴイスト』)

 これらに阿部訳も加わるし、誰が企画編集者だったかは判明していないが、「この時代は世を挙げて、酒狂ひ」中にあって、彼らをも翻訳の世界へと召喚した人物が存在していたことになろう。それに阿部のわずか二ページの「解説」からだけでも、彼がスタンダリアンであることがうかがわれる。本探索でゾラの翻訳が社会か主義人脈から始まったことに繰り返し言及してきた。それにスタンダールにしても、『近代出版史探索』21などの佐々木孝丸が『赤と黒』『パルムの僧院』、同434の齋田禮門が同じく『パルムの僧院』を翻訳していることにふれてきたが、阿部もアカデミズムではなく、こちらの系譜に属すると見なせよう。

近代出版史探索
 またさらに阿部を探索してみると、明治三十四年東京生まれで、早大仏文科卒業後、同大学付属図書館に勤務し、洋書部司書とあり、他に戦後の翻訳として、ドーデ『少年スパイ』『風車小屋からの便り』(いずれも同和春秋社)が挙がっている。そして宮嶋の妻の八木うら子の妹で、本探索1205の八木さわ子がこれもまたドーデの『プチ・ショーズ』『ヂャック』の翻訳者であることを想起してしまう。ここでも翻訳人脈は連鎖していることを伝えていよう。

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