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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1360 佐藤紅霞『洋酒』とダヴィッド社

 本探索1354の百瀬晋『趣味のコクテール』だが、『近代出版史探索』19の佐藤紅霞が戦後になって刊行した『洋酒』(ダヴィッド社、昭和三十四年、三版)を読んでみると、酒を飲まない百瀬がそうした一冊を書くことができたとは思えないのである。

 近代出版史探索

 佐藤の『洋酒』には「ストレートからコクテールまで」というサブタイトルが付されているけれど、紛れもないコクテール本で、その起源から多種多様なコクテール(cocktail、アメリカ語発音カクテル)の作り方などに及んで、昭和三十年代にはこうした実用書が成立し、しかも版を重ねていたことは時代を表象させる。また昭和三十一年の『経済白書』(講談社学術文庫)は「もはや戦後ではない」と謳っていたのである。佐藤もその「はしがき」に書いていた。

洋酒—ストレートからコクテールまで (1957年)

 近頃では経済的な洋酒を生(き)のままですすめ、または、それを基調に使った、風味色彩ともに豊かな、多種多様の、はなはだ趣きのある調合飲料コクテールをつくつて、主客共にこれを傾け、大いに楽しく語り合うということが盛んになつて来た。
 この書物の中には、家庭の主婦としてまずこれだけはぜひ心得ておいていただきたいと思う洋酒についての知識のあらましと、代表的コクテールその他の飲み物の処方百二十五種を選んで紹介してある。
 これらの飲み物によつて、皆様の朋友知人との御交際が、一層の親密さを増すことが出来うるならば、この上もない欣快の至りである。

 にわかに信じられない気もするが、同書を読んでいくと、日本のコクテール文化は佐藤を嚆矢として、大正時代に開化したように思われる。それをトレースするために、彼が挙げているコクテール本をリストアップしてみる。版元名がわかっているものだけはそれも付しておく。

1 佐藤紅霞 『風流な飲料コクテールの作り方』   大正十四年
2 百瀬晋 『趣味のコクテール』 金星堂 昭和二年
3 長崎嶺 『コクテールの調合法』   昭和四年
4 安土礼夫 『カツクテール』 一元社 昭和四年
5 谷地田耕作 『カクテル調合法四百余種』   昭和五年
6 佐藤紅霞 『世界コクテール辞典』 万里閣 昭和六年
7   〃  『世界飲物百科全書』 丸ノ内出版 昭和八年
8 小山雅之 『ドリンクス・サンドウイッチ全集』   昭和十年


 これらに加え、佐藤は『コクテール・ハンドブック』『ソフト・ドリンクス』「実践飲物講座」なども上梓し、飲物研究家、国際飲料研究所主宰と名乗っていることからすれば、彼はコクテールや国際飲料研究の第一人者に位置づけられるだろう。先の拙稿で、佐藤の本業が洋酒輸入商だったのではないかという推測を提出しておいたが、これらの著訳書はそのことを裏づけているのかもしれない。それに合わせて考えられるのは、本探索1355の百瀬晋と高木六太郎『飲料商報』との関係であり、それが戦後の国際飲料研究所へとリンクしているのではないだろうか。

 佐藤は『近代出版史探索』5のフックス『風俗の歴史』と同14の『変態風俗史』(「世界奇書異聞類聚」8、国際文献刊行会)の訳者として登場してきた。それゆえに同15の梅原北明の人脈に属し、海外のセクソロジー文献に通じた人物とされてきたが、ここでは異なる貌を見せている。また昭和三十二年に亡くなったと伝えられてきたが、『洋酒』の出版と検印のことを考えれば、同三十四年までは存命だったとわかる。

 それから『洋酒』のダヴィッド社だが、拙稿「ダヴィッド社版、安東次男訳『悲しみよこんにちは』」(『古本屋散策』所収)で既述しておいたように、サガンの初訳も刊行している。また『近代出版史探索』128のロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』も翻訳刊行し、訳者は川添浩史と井上清一で、二人は同125の「パリの日本人たち」のメンバーで、キャパもその近傍にいたのである。

 

 また井上とやはり「パリの日本人たち」の一人である鈴木啓介は証券会社の社長の息子で、ダヴィッド社の創業者の遠山直道もまた日興証券創業者の遠山元一の三男である。兄の一行:のほうは戦後パリに留学し、音楽研究と批評に携わり、やはり「パリの日本人たち」の同159のピアニスト原智恵子とも親しかったはずで、そのような環境の中からダヴィッド社は立ち上げられたと推察される。

 そして戦後の証券業界の黒幕が同21や133のスメラ塾の仲小路彰だったように、ダヴィッド社の出版顧問も彼が担っていたのではないだろうか。ジョルジュ・バタイユの『エロチシズム』(室淳介訳、昭和四十三年)にしても、当初は「パリの日本人たち」の近傍にいた岡本太郎のラインからと考えていたが、同127の『世界戦争文学全集』の企画者でもある仲小路のほうがふさわしいようにも思えてくる。

エロチシズム

 そのようなダヴィッド社がどうして佐藤紅霞とつながったのかは不明だが、日仏混血児、もしくはオランダ人医師を父とするとも伝えられる佐藤に関しては想像をたくましくさせる存在だというしかないのである。

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