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古本夜話1423 中村草田男句集『萬緑』と北野民夫

 浜松の時代舎で、中村草田男句集『萬緑』を見つけ、入手してきた。この句集の存在は知っていたが、実物を手にしたのは初めてで、四六判上製函入、装幀は武者小路実篤によるものだった。版元は甲鳥書林で、昭和十六年に「昭和俳句叢書」の一冊として刊行されている。かつて「甲鳥書林と養徳社」(『古本探究Ⅱ』所収)を書いているけれど、この「叢書」にはふれていないし、『日本近代文学大事典』にも挙げられていないので、そのラインナップを示す。

古本探究 2

1 加藤楸邨 『穂高』
2 中島斌雄 『樹氷群』
3 東鷹女 『魚の鰭』
4 石塚友二 『方寸虚実』
5 川端茅舎 『白痴』
6 石田波郷 『大足』
7 松本たかし 『野守』
8 篠原梵 『皿』
9 西島麦南 『人音』
10 中村草田男 『萬緑』
11 及川貞 『野道』

 

 これらは『萬緑』巻末の「本草書の著者達はすべてその子規の精神を継承実践して以て昭和俳壇をして日本民族詩の精髄たるを首肯せしめるであらう期待を荷うふ戦士」とある「刊行の辞」を掲げて示された「昭和俳句叢書」の一覧である。そこで11は「題未定」とされていたが、後に『野道』として刊行され、当初の予定どおり全十一巻は完結したことになる。

 しかしここで書いておきたいのはこの「叢書」のことではなく、この句集に収録されている草田男の「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」からとられた俳句雑誌に関連する人物と事柄である。この雑誌は昭和二十一年に創刊され、『日本近代文学大事典』第五巻に解題が見出されるので、必要とあれば、そちらを参照してほしい。

 これもまた戦後の話になってしまうのだが、前回もみすず書房にふれたので続けて言及しておこう。いきなり話が飛んでしまうけれど、北野民夫という名前を記憶されているだろうか。実は「原色版ライブラリー」の発行者名も彼であり、その後もずっとそうであった。この北野のプロフィルとみすず書房の社長に就任した事情に関しての詳細を知ったのは、その死後、編者を小尾俊人とし、刊行された『回想・北野民夫』(みすず書房、平成元年)によってだった。ただこれは「非売品」であるゆえか、『みすず書房刊行書総目録1946-1995』には掲載されていない。

 そこで初めて知った北野の軌跡とポジションは次のようなものだった。『出版人物事典』にも立項されていないので、たどってみる。大正二年東京市王子区に生まれ、十六歳で三省堂に入社し、辞書編纂の第一人者斎藤精輔の専任助手として働く。斎藤は『日本百科大辞典』などの編集者だった。昭和十一年二十四歳で中央大学法律家科(二部)を卒業し、三省堂を退社し、病気療養につとめ、保高徳蔵編輯の『文芸首都』に投句する。選者は中村草田男。十八年に旭倉庫に移り、二十一年の『萬緑』発刊に参画し、二十六年にみすず書房の社長に就任し、六十三年の死までみすず書房の奥付発行者にその名前をとどめることになった。

 それらの経緯と事情を『回想・北野民夫』における各人の証言から確認すると、昭和二十六年にみすず書房が手形事故で最大の危機に陥った際に、北野が経営協力し、借入金も市中金融から銀行へと移行し、有限会社から株式会社へと転換し、その後の持続する出版活動の実質的基礎が確立されたのである。だがそれは中村草田男や『萬緑』との関係も不可欠であり、草田男の娘の回想によれば、みすず書房のパトロンとなると同時に、『萬緑』と草田男のそれも引き受けることでもあった。

 

 昭和二十七年から北野は『萬緑』編集長として発行所をみすず書房へと移し、その翌年には草田男の『銀河依然』以後の句集、メルヘン集『風船の使者』、エッセイ集『魚食ふ、飯食ふ』なども刊行し、昭和五十八年の草田男死後、結社「萬緑」代表となり、五十九年からは編集委員として『中村草田男全集』の刊行を始めている。倉庫会社、みすず書房の社長も兼ねながら、「萬緑」と草田男のパトロンを務めたことになる。だがそのような北野であるのに、『現代史資料』の編集者の高橋正衛が引いている一句は「葱汁うまし逸話も持たで五十路過ぐ」である。北野とは三十七年間社長と社員の間柄だったが、「自己の人生を突き放してこう詠める人」であったと高橋は回想している。

   中村草田男全集 (12)  

 そこには戦前の三省堂に始まり、戦後のみすず書房にまで引き継がれた北野ならではの「達観」と同時に、これも高橋がいうように、「底に孤独に徹する凄さ」が秘められていたにちがいない。北野の句集は『私歴』『夢殿』(いずれも牧羊社)などが出されているので、先の一句がどれに収録されているのかをいずれ確認してみたいと思う。


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