出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1441 武井周作『魚鑑』と有隣堂

   
 本探索は大手出版社や著名版元、古典や名著をコアとしているのではなく、小出版社や忘れられた版元の所謂「雑書」に広く言及することをひとつの目的としている。そのためにいつも脇道にそれたり、寄り道したり、道草を食ったりしてしまう。だが考えてみれば、近年は脇道や寄り道もそうだが、道草を食うという言葉も聞かなくなっている。しかしそれは読書にまつわる必然的な行為であり、出来事のように思えるし、これからもそうした試みを続けていきたい。

 さてずっと釣りの本のことを書いてきたが、魚に関する書籍の出版も江戸時代から始まって、武井周作の『魚鑑』を入手し、その事実を教えられた。しかも同書は明治に入って、思いがけない版元から復刻され、昭和五十三年には八坂書房の「生活の古典双書」の一冊として刊行されていた。それを浜松の典昭堂で見つけたのである。
 
(八坂書房版)

 平野満のそれぞれの書影を掲載した「解説」によれば、『魚鑑』は全二冊で、天保二年(一八三一年)に櫟涯武井周作著、東都呑海楼蔵板として上梓されている。呑海楼は武井の書斎名、私家版で国会図書館所蔵とある。武井は医師で、医学のための探求心は魚にも及び、その「自序」に「之ヲ彙(アツメ)テ以テ一部通俗ノ書ヲ撰ント欲スルコト久シ」と述べ、ここにひとつの魚事典が編まれ、提出されたことになる。先の一節の前後を私訳抽出してみる。ルビなどをそのまま引用するのは煩に堪えないからでもある。
 
魚鑑 2巻 [1] (国立図書館コレクション)  魚鑑 2巻 [2] (国立図書館コレクション)

 日本は海国ゆえに魚類は驚くほどの多種に及んでいる。近年長浜街に居を移した。そこは日本橋東にあり、魚屋がとても多い。色々な魚や様々な魚があふれんばかりに並んでいる。時にはめずらしいかたちのものも見られるし、朝夕ごとに目にするので、学問心を刺激するし、話を聞き、目のあたりにして納得する。そこで紙を広げ、筆をひねり、無学は承知の上で、長きにわたる思いをこの一冊に編むこととなった。

 まさに武井は江戸の医師にして考証家、好事家であり、明治を迎えての『近代出版史探索Ⅲ』423の集古会へと連なっていく街頭の民俗学者たちの先達であった。

 そのことはひとまずおくとして、ここで言及したいのは明治に入ってからの復刻出版に関してである。『魚鑑』は「解説」に見えているように、『能毒魚かゝみ』のタイトルで、東都書林青雲堂梓として刊行され、これは書影からはうかがえないけれど、「装いががらっと変わる。紅殻色の表紙」とされる。『日本出版百年史年表』所収の明治六年「東京府管下書物問屋」リストを確認してみたが、青雲堂は見当たらない。江戸時代の書肆だとも考えられる。

 

 ここでようやく明治十八年の有隣堂版『魚鑑』にふれることができる。それは有隣堂の「勧農叢書」の一冊としてで、京橋区南伝馬場の穴山篤太郎を翻刻出版人としての刊行である。ちなみにそこに掲げられた「勧農叢書」は『百姓伝記』、正続『栽茶節』『養蜂絹節』『再種法』『耕稼春秋』で、その他にも『馬鈴薯』には「有隣堂発兌之内勧農叢書目録」が付され、北海道から九州に至る三十四の「弘通書林」が並んでいるという。これは全国の販売特約店、取次のことをさしている。
 
(有隣堂版) (「勧農叢書」、「鯉魚繁殖法』) 

 また『耕稼春秋』の巻末には「勧農双書ハ篤志諸君ノ賛成ヲ得テ規約ヲ設ケ同盟員ヲ募リ毎月一次内外ノ農事ハ勿論、山村、水産、博物等ニ関スル古書ニシテ其板既ニ絶ヘ与ルモノ其未タ版本アラザル写本」を出版するとあり、『魚鑑』はその「水産」に該当するものだったのであろう。

 なぜこのように有隣堂の「勧農叢書」にふれたかというと、『近代出版史探索Ⅱ』398で取り上げておいたように、有隣堂は農業書版元あるにもかかわらず、近代出版史において、文芸書の日高有倫堂と混同されているからだ。また現在の横浜の有隣堂とも異なることはいうまでもないし、拙稿「書店の小僧としての田山花袋」(『書店の近代』所収)が丁稚奉公していた書店もあった。それは花袋の『東京の三十年』(岩波文庫)にも述べられているが、花袋は明治十四年に十一歳で館林から上京し、有隣堂の丁稚となった。明治十年代はまだ博文館も創業されておらず、先の「書物問屋」に見られる須原屋茂兵衛、山城屋佐兵衛といった江戸時代からの老舗書店の時代であり、その中で大正時代になっても残っているのは丸善だけだった。丸善に関してはこれも拙稿「近代書店としての丸善」(同前)を参照されたい。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)  東京の三十年 (1981年) (岩波文庫)

 だが花袋の有隣堂での丁稚奉公は明治十五年で終わっているので、「勧農叢書」の出版には立ち会っていなかったことになる。それでも「叢書」の書名を挙げたのは、これまでまとまった有隣堂の農業書のタイトルを目にする機会を得ていなかったからである。


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