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古本夜話1445 小川菊松編『猟犬銃猟射撃事典』

 誠文堂新光社の二代目小川誠一郎にふれたからには創業者の小川菊松にも言及しないわけにはいかないだろう。これまでも本探索で『出版興亡五十年』の著者として、しばしば登場してもらってきたが、『出版人物事典』の立項は引いてこなかったので、まずはそれを示しておこう。

   出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [小川菊松 おがわ・きくまつ]一八八八~一九六二(明二一~昭三七)誠文堂新光社創業者。茨城県生れ。一五歳で上京、書店店員から出版物取次の至誠堂に入店、一九一二年(明四五)独立して「神田錦町に取次仲買業(せどり屋)誠文堂を開業した。翌年、出版をはじめ渋川玄耳の『わがまま』を処女出版、一八年(大正七)加藤美命(ママ)『社交要訣―是丈は心得おくべし』が大ヒットし社名をあげた。雑誌も『商店界』『子供の科学』『無線と実験』などを成功させた。三五年(昭一〇)新光社を合併、誠文堂新光社と改めた。終戦直後発行の大ベストセラー『日米会話手帳』は伝説的な話ともなっている。六二(昭三七)七月三日、愛用の猟銃をもって自らの生を絶った。『商戦二十年』『出版興亡五十年』『出版の面白さむずかしさ』など著書が多い。『おやじさん―小川菊松追悼録』も出版された。
 是丈は心得おくべし     

 この立項には記載されていないが、菊松の自死は誠文堂新光社の一冊の事典と無縁ではないし、それどころかダイレクトにつながっている。菊松は自らを編集者兼発行者として、昭和三十二年にまさにその『猟犬銃猟射撃事典』を刊行しているからである。この『事典』は函入A5判上製、猟犬販売所などの五〇ページに及ぶ口絵写真も含めると、八五〇ページという大冊で、釣りやシャボテンはどではないにしても、狩猟もブームになっていたし、それは小川の「発行者のことば」にも語られている。

(『猟犬銃猟射撃事典』)

 昭和二十八年八月、私は「猟犬銃猟射撃大観」を出版したが、これは犬に関する書籍「犬の百科辞典」「日本犬大観」「シェパード犬大観」に続くものとして「売れる売れないは度外視して」出版したものである。ところが私の予想は美事に外れ、二十九年末には再版を発行した。(中略)
 ところが、日本における狩猟界の情況は急激な変化を見るに至った。即ち、実猟に於ては、山野におけるゲーム激減の現象にともない、猟犬技能の高度化が要求され、その血統と訓練に新たなる考慮が払われるに至った。また一方射撃はスポーツとしてその真価を発揮し、オリンピックの種目として世界の視聴を集めたばかりか、わが国における選手のマニラ及び南米における活躍と、昨年度のメルボルンにおける成果は、多少期待に添わぬ感はあったが、大いにわが国斯界の志気を興起せしめたといっていい。

 これは昭和三十二年一月二十日付で書かれている。当時はまだ小学生にもなっていなかったし、門外漢だが、大藪春彦が『野獣死すべし』でデビューしたのはその翌年だったことを考えると、そうした銃をめぐる社会環境も影響していたように思われてならない。

野獣死すべし (角川文庫 緑 362-24)

 それはともかく、拙稿「原田三夫の『思い出の七十年』」(『古本探究Ⅱ』)で、原田から菊松が「目から鼻にぬけるような利巧もの」の「小僧上り」と評され、その後も他に例を見ない流通販売にも通じた不世出の出版人としてサバイバルしてきたにもかかわらず、どうして『猟犬銃猟射撃事典』のような「売れる売れないは度外視して」の「道楽出版」に、編集者兼出版者として関わることになったのか。

古本探究 2

 それは昭和二十七年一月に創刊した『愛犬の友』が発端だった。菊松が『出版興亡五十年』で語っているところによれば、「業界五十年の記念児」であり、「銃天狗、犬自慢の私の道楽雑誌」として始まった。ところが「斯界唯一の雑誌」だったゆえか、それほどの赤字とならず、創刊号の一万二千部はその後も変わらず、刊行を続けると広告も集まるようになり、畜犬界からも注目されるようにもなってきた。

 それを機縁として、菊松は小石川後楽園競輪場での国際総合畜犬展覧会を構想する。それに賛同したのはアメリカ人水兵のピーターソンで、イギリス人のブリンクリーも加わり、全犬界の各協会、各倶楽部や各新聞も協賛し、賞もまた各大臣などから出されることが決まった。かくして費用は持ち出しだったけれど、国際総合畜犬展覧会は大成功裡に終わったという。「道楽出版」として始めた雑誌が「趣味の共同体」へと結集し、国際的な展覧会開催へと至る時代もあったのだ。『愛犬の友』はそのようにして創刊されたゆえか、令和2年まで誠文堂新光社から刊行されていたのである。

 

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