もう一冊、浜松の時代舎で、所謂「業界本」を見つけているので、これも続けて紹介しておこう。
それは大阪毎日新聞社校正部編『校正の研究』で、昭和三年に大阪毎日新聞社と東京日々新聞社から刊行されている。四六判函入、六三六ページ、索引付の堂々たる一冊である。前回の『出版事業とその仕事の仕方』で、書評のための献本先として、まずこの両新聞が挙げられていたことからすれば、当時二千を数えたとされる新聞の代表的存在と見なせよう。そうした事実と「序」を寄せているのが大阪毎日新聞社社長の本山彦一などであることを考えると、隆盛を迎えつつあった新聞業界が初めて刊行に至った校正のための一冊といえるかもしれない。
『校正の研究』は大阪毎日新聞社校正部編とされているけれど、本山の「序」はそれが長年同新聞の編輯、整理部を担い、現在は校正部長の職にある平野岑一によると記している。それに加えて、平野は「校正に関する実地の研究を積み、また広く彼我の著者を渉猟して、その文献を明かにする」ことをめざし、この研究を著したのである。それは平野自身の「序」に記されているように、「校正の研究に関して、これまで、わが国で公刊せられた書籍はない」し、本文中の言葉を借りれば、「わが国に前例のない書物」、つまり校正に関する嚆矢の一冊として刊行されたことになる。
そのために新聞における校正の歴史もたどられ、明治三十年代後半に『東京日日新聞』において、論陣を張っていた福地源一郎の「懐往事談、付新聞紙実歴」(『福地桜痴集』所収、『明治文学全集』11)の「校正可畏」(校正畏るべし)のエピソードが引かれている。ここでそのよく知られた言葉が福地に由来し、それが『論語』の「子曰後生可畏」に基づくことを教えられた。
また新聞において黒岩涙香は校正をよく理解し、『万朝報』編集局においても校正部門を独立させ、その信頼する校正者中川毅に破格の月給一万円を与えていたこと、『近代出版史探索』102の涙香『天人論』にはその中川の名前が明記され、「書籍に校正者自身が名を記して、責任を明かにした」のは『天人論』が最初だと伝えている。また当時の雑誌として校正の厳密さを語っていたのは、高浜虚子の『ホトトギス』、佐佐木信綱の『心の花』、与謝野寛夫妻の『明星』などだったという。
これらも知らなかった事実だけれど、最も興味深かったのは出版が昭和円本時代だったこともあって、「書籍校正」のところで、「全集校正」が例として挙げられていることだ。「この円本の大流行」は「自然校正上にも、正確完全をはかるといふことに、期せずして一致し、それゞゝ老練な校正者や、文学者や、学殖のゆたかな教育家などを聘して、一時一句の誤をもおそれる有様」となったのである。実際にそれらの例として、『近代出版史探索Ⅵ』1116の国民図書『校註日本文学大系』、『同Ⅵ』1062の改造社『現代日本文学全集』、『同Ⅵ』1098の春陽堂『明治大正文学全集』、『同Ⅲ』427の平凡社『現代大衆文学全集』、新潮社『世界文学全集』、春秋社『世界大思想全集』などが語られている。これらは新聞らしく実際に取材したり、書簡での取い合わせ調査によっているようだ。
そのためにこれらの全集の構成事情がそれぞれ具体的にレポートされ、編集と校正の肉声が聞こえてくる。だからすべてを紹介したいが、それは許されないし、ここでは続けて第一書房に言及していることもあり、『近代劇全集』の例を引いてみよう。
(『近代劇全集』25)
この全集は普通の印刷でなく、単式印刷といふ方式によつてゐるから、一般の植字、差替とは趣を異にしてゐる。まづタイプライターで打つた原稿を写真にとり、誤字はその個所に切りばりをする。校正者は四人で、漱石全集の編纂と校正にあづかつた石原氏と、もと中学校長であつた博学の人物がゐる。日本女子大出の婦人を聘してゐる点もかはつてゐる。初校はかならず詰合せ、再校三枚は単独。四校で校了とする。日本における上演用台本とする心組みから、翻訳者もすこぶる熱心で、加筆訂正は一般の創造のほかであると。
ここで述べられている「単式印刷」は補足説明を必要とする。『出版事典』(出版ニュース社)によれば、写真平版の一種で、特殊なタイプライターによって印字し、これを版下として卵白平版をつくり、オフセット印刷機で印刷する方式をさす。この定義によって、続く「タイプライター云々」という説明が理解できよう。昭和六年の平凡社『大百科事典』もこの方式によっているという。
さらに「漫談」と題する最終章は四五ページに及ぶもので、大正から昭和にかけての新聞、雑誌、書籍の校正の実際と内幕までも明かされ、近代出版界にしても、校正の歴史とともに歩んできたことを示唆してくれる。
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