出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話963 眞堺名安興と『沖縄一千年史』

 もう二冊ほど沖縄書があるので、続けて書いてみる。

 一冊は眞堺名安興、島倉龍治著『沖縄一千年史』で、昭和二十七年の四版とあり、発行者は福岡市の親泊政博、発行所は住所を同じくする沖縄新民報社、発売所は琉球文教図書株式会社となっている。
f:id:OdaMitsuo:20191028091755j:plain:h110(『沖縄一千年史』、琉球史料研究会復刻版)

 二人の著者のうちの眞堺名は『柳田国男伝』の「註」の「伊波普猷略年譜」のところに、沖縄県尋常中学校の同級で、沖縄県立図書館長とあり、主著として『沖縄一千年史』が挙げられていた。同書はA5判上製、本部六五一ページに及ぶ大冊で、六枚の口絵写真には沖縄県立図書館郷土研究室における著者の姿も含まれている。

 その構成を示せば、沖縄人の始祖から始まる古代記、四王統の興亡、尚圓王統前期、同中期、同後期の五篇からなり、それぞれの歴史、文化、神社と宗教、風俗などがたどられ、本土との関係もトレースされ、最初の沖縄の一千年通史に位置づけられるであろう。その中から何を紹介しようかといささか迷うのだが、やはり第三編第四章における「上代の遺風」の中の「拝所」を引きたい。それは次のように記されている。

 琉球神道記に「国の風として岳岳浦浦の大石大樹皆御神に崇め奉る。然して拝貴則験(をがみあがめばしるし)あり」とあるが如く、琉球にては之を拝所(ヲガミジヨ)と称へ、概ね石垣を繞らし、香爐を備へ、内部には大樹怪石ありて殊に蒲葵、恍榔、榕樹、「ガジマル」等鬱蒼たり。此の拝所は琉球全島に亘り、到る所に存在して夫々神名を有し、(年中祭祀等参照)例へば、「クバツカサ」(蒲葵司)或は「マニツカサ」(恍榔司)など称せり。本土に於ても亦鳥獣、金石、草木等珍奇のものを神と崇め、或は尊(ミコト)と唱へて、崇礼せしは一般の旧習にて、記紀等に徴せるも亦上古の風なりしこと明なり。

 しかし鳥獣に関しては沖縄には鳩、鹿、猿、狐がいないので、「蛇、鰻、鯉等を神仏視することあり」とも付け加えられている。

 この「拝所」という言葉を最初に知ったのは岡谷公二の『南の精神誌』(新潮社、平成十一年)によってである。この中で、彼は沖縄全域に見られる、本土の神社に相当する聖地としての「御嶽」を論じていた。それによれば、一般には「ウタキ」だが、「オタキ」「オタケ」とも呼ばれ、土地によっては「ハイショ(拝所)」「ウガンジョ(拝み所)」「ウガン」、もしくは「ムトゥ」「オン」「ワン」「ワー」などとも称されているようだ。さらに先の「クバツカサ」「アニツカサ」も加えられる。それは「御嶽」が外部の者に対する「一種の公的用語」であることを伝えていよう。

南の精神誌(『南の精神誌』)

 沖縄の「御嶽」は今でも「建物の類が一切なく、クバ、アコウ、ガジュマルなどの茂った森だけを、神を祀る場所としているところが多い」。沖縄に古神道の原型が残されているとすれば、神社もかつては「御嶽」と同じだったのではないかと岡谷は問うている。また「そうした森の中に立っていると、人々の心が神に向って純一になり、透明になってゆくのが実感」されるとも書いている。

 その岡谷の『南の精神誌』を読んでから、それほど間を置かず、岡本敏子編『岡本太郎の沖縄』(NHK出版、平成十二年)が出された。そしてその中に七枚の「御嶽」の写真が見出された。それは「天地開秒闢の時、はじめて神々が降臨したという久高島」のクボノ御嶽(通称・大御嶽)、本島知念村の斎場御嶽、石垣島の拝所で、確かに「この神聖な地には、神体も偶像も何もない」のだ。斎場御嶽に関しては岡谷も『南の精神誌』の中で、「伊勢神宮に比すべき聖地」として、長く詳細に論じ、描いている。これらの写真は昭和三十四年十一月から十二月にかけて撮られ、その記録は『沖縄文化論』(中公文庫)としてまとめられている。おそらく岡本は本連載で言及を続けてきたマルセル・モースの Manuel d'ethnographie (Payot ,1947)を携え、沖縄へと向かったのであろう。

岡本太郎の沖縄 沖縄文化論 Manuel d'ethnographie

 さらに続けて「御嶽」に言及したいのだが、それは次回に譲り、『沖縄一千年史』には巻末に先の発行者の親泊政博による「『沖縄一千年史』四版刊行に際して」が収録されているので、それにふれてみたい。同書の初版は大正十二年に、やはり島倉龍治共著として、五百部限定版で出された。その事情は初版刊行の助力を約し、激励していた、沖縄財界の伸吉朝助が失脚し、印刷費が捻出できなくなり、出版が頓挫しようとしていたことにある。

 ちょうどその頃、島倉が那覇地方裁判所検事正として着任し、沖縄史研究に関心を寄せ、様々な活動を展開し、眞堺名と肝胆相照らし、『沖縄一千年史』の出版援助の議がまとまった。そして島倉の積極的強力による上梓の機運の到来とその深甚なる友好にほだされ、眞堺名は島倉に「序」を乞い、「合著の形式をもつて礼をつくした」とされる。ここでようやく「合著の形式」が了承され、そのような出版のかたちもあることを教えられる。

 それから眞堺名はさらに資料収集と再検討を加え、昭和七年に増補新版刊行を意図し、沖縄県立図書館で親泊に助力を求めた。親泊が直ちに応諾したことに眞堺名は満悦の意を表されたという。しかし眞堺名は不幸にして病に付し、増補新版刊行の実現を見ずして、病床に呻吟し、昭和八年十二月、五十九歳でその一生を閉じることになった。再版刊行は昭和九年三月であり、それで同書の口絵写真に同年四月の沖縄郷土協会主催の「故眞堺名安興氏追悼会」の一枚が掲載されている事情を理解することになるのである。


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古本夜話962 笹森儀助『南嶋探験』

 柳田国男は昭和三十六年に筑摩書房から刊行された『海上の道』(岩波文庫)の中で、笹森儀助の『南島探検』に言及し、次のように述べている。
海上の道

 笹森儀助の『南島探験』という一書は、明治二十六年(一八九三)かに、この人が沖縄県の島々を巡歴して、還ってきてすぐに出版した紀行であるが、何かわけが有って十数年も後に、やや大量に東京の古本屋に出たことがある。自分もそれを買い求めてひとたび精読し、始めて南端の問題の奇異且つ有意義であったことに心づいた。それを読んだという人にはその後幾十人というほど出逢ったが、各自の印象はまだ十分に語りかわすことができずにいる。

 そして柳田の記憶に焼きつけられているのは、笹森が人の止めるのも聞かず、マラリヤの病によって消え去ろうとしている高地の村々を通ったという場面、また他の村では老人が一人いて、どうしようもない窮状を告げているところだと。

 幸いにして、この『南嶋探験』(東喜望校注)は昭和五十七年に平凡社の東洋文庫の二巻本が出されている。サブタイトルは「琉球漫遊記」で、口絵写真には尻ばしょりで帽子をかぶり、傘をさしている笹森の「真像」の掲載がある。これは、『柳田国男伝』にも採用され、「当時の彼のいでたちをよく伝えている」とのキャプションを目にすることができる。

 それはともかく、柳田の記憶を確認してみると、やはり半世紀前の読書であることを告げるように正確ではない。それは明治二十六年七月後半の「西表島巡回」に見出されるもので、「高サ十丈余、土民此辺ヲ恐テ行クモ少ナシ。コレ亦風土病ノ潜伏スルカノ恐レアルヲ以テ也。(中略)丘陵ノ上ハ数多ノ旧屋跡アレ」がそれに該当する。また「有病地ノ故ヲ以テ、来レハ死スルト為ス。故ニ無病地各嶋ノ婦人ニシテ、誰一人来ル者ナシト」。こちらは村の老人の話になるのだろう。それに両者は柳田がいう古見村ではなく、前者は船浦村、後者は高那村、古見村にはそれらしき記述は見当らない。さすがの柳田にしても、明治二十年代に読んだ『南嶋探験』は手元になく、記憶によって書いたのではないだろうか。

 その『南嶋探験』出版史をたどる前に、笹森のプロフィルをラフスケッチしておく。笹森は弘化二年に弘前藩御目付役の家に生まれ、安政四年に父の死去に伴い、家禄を継いで小姓組となり、藩黌稽古館で学んだ。ところが山田登という武芸の師の憂国と農本思想的影響を強く受け、国防の必要性を説いた国政改革意見書を藩主に提出したことで、師弟ともども蟄居の身となる。明治三年に維新の大赦を受け、弘前藩庁に入り、県下の民政、財政の仕事に携わり、中津軽郡長に任ぜられ、弘前病院監督や県立女子師範学校長を兼務し、地方行政官としての手腕を発揮した。

 だが明治十四年には政争に巻きこまれ、辞表を提出し、開拓を進めていた常盤野に農牧社を開業する。以後十年にわたって、その経営に当たり、苦難の中で、政府拝借金の返済目途が立ったことから、二十三年に社長を降り、翌年から『南嶋探験』の「緒言」にある「余ハ草莽ノ士」として、所謂「貧旅行」を試みていく。それらは横浜からの近畿、中国、九州などを一巡した『貧旅行之記』、翌年には『千島探験』に挑むことになる。
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 さてその出版史だが、東喜望の東洋文庫版「解題」によれば、その底本は青森県立図書館特別資料の笹森儀助自筆写本(稿本)である『南嶋探験』乙である。さらに主として写本の『南嶋探験』丙が参照されている。それは明治二十七年に洋本として上梓された『南嶋探験』も同じプロセスをたどったようだが、こちらは「明らかに私家版」だとし、『非売品 南嶋探験』の書影も示され、その体裁も述べられている。菊判五三二ページで、井上毅など三人の漢文「序」や「跋」は東洋文庫版と同じだが、発行所兼編輯人が笹森儀助、印刷所は東京京橋恵愛堂とあり、確かに出版社名の記載はない。

 東は笹森が「これを知己・学会等に配布し」たと述べ、「同書の一、紅色表紙本は天皇への献上へ備えたものだ」と指摘している。だが柳田がいうところの「何かわけが有って十数年後に、やや大量に東京の古本屋に出たことがある」事情は定かでないとされる。しかしこの大正初期と思われる時代に、『南嶋探験』が「やや大量に東京の古本屋に出た」ことによって、柳田が読み、沖縄への関心を高め、そこに伊波普猷の『古琉球』の献本が届き、大正十年の沖縄旅行と『海南小記』(大岡山書店)へと結びついていく。

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 そして翌年には南島談話会が開催され、本格的な南島研究に結びついていく。おそらく南島談話会の人々も、、『南嶋探験』が「やや大量に東京の古本屋に出たこと」によって、柳田と同様に読んだのであろう。私なりにその理由を推理すれば、『南嶋探験』は早すぎる琉球書だったこと、及び出版社を経由しない自費出版であったことも相乗して、取次や書店ルートでの販売はできなかった。それゆえに、かなりの部数がそのまま東京の印刷所の恵愛堂の倉庫に残ってしまった。そうして大正四年に笹森が死去したことにより、それらが古本屋へと「やや大量」に流出してしまったのではないだろうか


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古本夜話961 比嘉春潮、崎浜秀明編訳『沖縄の犯科帳』

 本連載958で、伊波普猷『古琉球』の「後記」が比嘉春潮と角川源義の連名で書かれていることを既述しておいた。後者の角川は昭和二十年に角川書店を創業し出版業界ではよく知られているので、ここでは前者の比嘉にふれてみたい。たまたま彼と崎浜秀明編訳の『沖縄の犯科帳』が手元にあるからだ。

f:id:OdaMitsuo:20190925153342j:plain:h110(青磁社版)沖縄の犯科帳

 それに比嘉は『[現代日本]朝日人物事典』にも立項されているけれど、『柳田国男伝』において、昭和初期の南島研究の組織化とその展開にあたって、「柳田自身の学問にとっても、比嘉は欠くことのできない重要なインフオーマントであった」とされ、言及や登場頻度も高いのである。それもそのはずで、柳田との出会いも奇妙な偶然といえるものだった。比嘉の自伝ともいうべき『沖縄の歳月』(中公新書)などを参照し、その軌跡を追ってみる。

[現代日本]朝日人物事典  f:id:OdaMitsuo:20191023113849j:plain:h120

 比嘉は明治十六年に沖縄の中頭郡に生まれ、父は首里の元士族だった。沖縄は十三年の琉球処分に続く混乱期にあり、物心両面における激変にさらされていた。その中で比嘉は多感な少年時代を送り、キリスト教やトルストイズムや社会主義から深い影響を受け、自らがいうところの「明治末年の革新的な有識青年一般のたどる道すじ」を進んでいた。しかしそこには近代日本における沖縄の現実が重なっていた。明治三十九年に沖縄師範学校を卒業し、小学校の教師となった。
 そして明治四十三年頃、伊波普猷と知り合い、彼の語る沖縄の歴史から郷土に関する新しい知識を得て、比嘉は伊波に深い尊敬の念を覚え、大きな影響を受けるのだが、その一方で社会主義へも接近し始めていた。彼は小学校の校長に抜擢されながらも、大正七年には新聞記者になり、その翌年には県庁に移っていた。十年一月五日に柳田が初めて沖縄の土を踏み、県立図書館に伊波を訪ねた時、比嘉は県庁地方課の役人だったこともあり、その場に居合わせたけれど、初対面の挨拶をしただけで、言葉を交わすことはなかった。

 しかし比嘉は新聞記者から県庁に転職しても社会主義活動を続け、堺利彦と文通したり、仲間の一人がアナキストの岩佐作太郎を沖縄に招くことになっていた。それを警察が察知したこともあり、心配した上司が岩佐の沖縄滞在中、支庁事務調査の名目で比嘉に宮古島出張を命じたのである。その一月二十日は柳田も宮古島に向かう船中にあり、『柳田国男伝』で述べられている「晩年まできわめて親密に交流し、彼の南島研究にとっても大きな役割を果たすことになる一人の人物」比嘉と出会い、期せずして彼を学問の世界へと招来することになった。

 そして比嘉は大正十三年に上京し、改造社に入社する。その後の彼の軌跡が『柳田国男伝』に「註」として付されているので、昭和十年代までを引いておこう。昭和二年南島談話会に参加し、幹事役を務め、六年にはそれを復活させ、会の運営に当たる。八年には柳田とともに雑誌『島』を発刊し、九年には木曜会に参加し、山村生活調査に加わっている。『柳田国男伝』には木曜会初期メンバーの集合写真が掲載され、そこには比嘉の姿もある。また当然のことながら、十年には柳田の還暦記念民俗講習会にも参加している。

 昭和十年で止め、比嘉の戦後と昭和五十二年の死までたどらなかったのは、『沖縄の犯科帳』に関して書けなくなってしまうからだ。これは琉球王国の裁判所である平等所(ひらじょ)の記録で、戦前には那覇地方裁判所にかなりの分量が保存されていたようだが、戦禍でほとんどが消滅してしまい、大正十三年頃に平等所の一部の裁判記録を筆写させたものだけが唯一の現存で、それを口語訳したものである。「まえがき」は謳っている。

 この「犯科帳」は、琉球王国が最初に制定した刑法典である「琉球科律」「新集科律」を、どのように具体的に適用したかを知る上に、また当時の社会状態の一端を窺う上にまことに興味深いものがある。琉球王国はつねに平和を愛好し、無刑の世を理想としてきた。一七三四年(享保十九、雍正十二)に平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)が処刑されたほか、死刑はそう多くなかったようである。

 『沖縄の犯科帳』に記載された事件は徳川末期から明治初期の約百年間の沖縄で起きたもので、それらの事件は今日の沖縄とも、当時の日本とも異なる、数世紀にわたる旧時代的社会諸制度や習俗を反映していることは明らかだ。だがそれが法的に遅れていたということを意味していない。これらの事件は放火、窃盗、姦通、脱走、殺傷、癇癪持ち、酔狂者、契約不履行、位牌・墓所に関する事件、戸籍に関する事件からなる26の裁判記録である。

 それらを一読しての印象は「解説」にもあるように、「審理判決に当たっては、常に慎重な態度をもってし、ことの疑わしきを罰せず、たとい自白しても確たる証拠のないものは処刑しないという、現代の法思想と相通じる公正な態度」が認められる。ただ「位牌・墓所」「戸籍」に関する事件が11と、半分近くを占めているのは、沖縄の社会法制度ゆえであろう。そこには南島のみならず、日本の源初の法制が埋めこまれているのかもしれない。

odamitsuo.hatenablog.com


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出版状況クロニクル138(2019年10月1日~10月31日)

 19年9月の書籍雑誌推定販売金額は1177億円で、前年比3%減。
 書籍は683億円で、同0.2%増。
 雑誌は494億円で、同7.3%減。その内訳は月刊誌が409億円で、同8.4%減、週刊誌は85億円で、同1.5%減。
 書籍のプラスは4.7%という出回り平均価格の大幅な上昇によるもので、消費増税を前にした駆け込み需要などに基づくものではない。
 返品率は書籍が32.8%、雑誌は40.3%で、月刊誌は40.0%、週刊誌は41.8%。
 10月はその消費増税と台風19号などの影響が相乗し、どのような流通販売状況を招来しているのだろうか。
 大幅なマイナスが予測される。
 今年も余すところ2ヵ月となった。このまま新しい年を迎えることができるであろうか。


1.日販の『出版物販売額の実態2019』が出された。
 17年までは『出版ニュース』に発表されていたが、同誌の休刊により、18年の出版データの切断も生じる危惧もあるので、例年よりも簡略化するけれど、同じ表のかたちで掲載しておく。


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■販売ルート別推定出版物販売額2018年度
販売ルート推定販売額
(億円)
前年比
(%)
1. 書店9,455▲7.8
2. CVS1,445▲8.3
3. インターネット2,094▲5.3
4. その他取次経由528▲28.5
5. 出版社直販1,971▲18.0
合計15,493▲4.5

 出版科学研究所による18年の出版物販売金額は1兆2921億円、前年比5.7%減だったのに対し、こちらは出版社直販も含んで、1兆5493億円、同4.5%減である。
 本クロニクル127で予測しておいたように、18年はついに書店が1兆円、コンビニが1500億円を下回り、取次ルート販売額の落ちこみを示している。それはその他取次のマイナス28.5%にも明らかだ。
 本クロニクルでもふれてきたが、19年の書店閉店は多くのチェーン店や大型店にも及んでいる。またコンビニの場合もセブン-イレブンは1000店の閉店が伝えられているし、書店とコンビニの出版物販売額はさらなるマイナスが続いていくことが確実であろう。
 それらの事実は、取次と書店という流通販売市場がもはや臨界点に達してしまったことを告げていよう。それは生産を担う出版社にしても、インターネットや直販ルートは伸びているけれど、同様であることはいうまでもないだろう。
odamitsuo.hatenablog.com



2.出版科学研究所による19年1月から9月にかけての出版物販売金額音推移を示す。

■2019年上半期 推定販売金額
推定総販売金額書籍雑誌
(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)(百万円)前年比(%)
2019年
1〜9月計
935,484▲4.2520,522▲3.8414,962▲4.6
1月87,120▲6.349,269▲4.837,850▲8.2
2月121,133▲3.273,772▲4.647,360▲0.9
3月152,170▲6.495,583▲6.056,587▲7.0
4月110,7948.860,32012.150,4745.1
5月75,576▲10.738,843▲10.336,733▲11.1
6月90,290▲12.344,795▲15.545,495▲8.9
7月95,6194.048,1059.647,514▲1.2
8月85,004▲8.241,478▲13.643,525▲2.4
9月117,778▲3.068,3560.249,422▲7.3

 19年9月までの書籍雑誌推定販売金額は9354億円、同4.2%減、前年比マイナス408億円である。
 この4.2%マイナスを18年の販売金額1兆2920億円に当てはめてみると、1兆2378億円となり、20年は1兆2000億円を割り込んでしまうだろう。そうなれば、1996年の2兆6980億円の半減どころか、1兆円を下回ってしまうことも考えられる。
 それに重なるように、19年の書店閉店は大型店が多く、その閉店坪数は最大に達すると予測される。例えば、9月のフタバ図書MEGA岡山青江店は1100坪で、在庫は軽くなったと見なしても、返品総量は途方もないだろう。19年はそうした大返品が出版社に逆流し、予想もしない大返品に見舞われている。それはいつまで続くのであろうか。



3.文教堂GHDの事業再生ADR手続きが成立し、債務超過をめぐる上場廃止期間が1年延長される。
 筆頭株主の日販は5億円出資し、帳合変更時の在庫の一部支払いを再延長し、事業、人事面で支援する。アニメガ事業はソフマップの譲渡し、20年8月期に債務超過を解消予定。
 一定以上の債権を持つみずほ銀行などの金融機関6行は既存借入金の一部を第三者割当方式により、41億6000万円を株式化することで支援する。
 さらなる詳細は文教堂GHDのHP「事業再生ADR手続きの成立及び債務の株式化等の金融支援に関するお知らせ」を参照されたい。
 なお発表を控えていた文教堂GHDの3月期決算連結業績は売上高243億8800万円、前年比11.0%減、営業損失4億9700万円、経常損失6億1000万円、親会社株主に帰属する当期純損失39億7700万円。42億1200万円の債務超過。


 取次と銀行による46億円の債権の株式化という事業再生計画が提出されたことになる。だが肝心の書店事業に関しては返品率の減少や不採算店の閉鎖などが謳われているだけで、上場廃止猶予期間を1年間延長する先送り処置と判断するしかない。
 このような銀行の債権の株式化を含むスキームは、出版業界の内側から出されたものではなく、経産省などが絵を描いたと思わざるをえない。書店という業態がまさに崩壊しつつある現在、このような金融支援だけで再生するわけがないことは、出版業界の人間であれば、誰もが肌で感じていることだろう。折しも『創』(11月号)で、「書店が消えてゆく」特集が組まれているが、そこからは書店の悲鳴の声が聞こえてくる。
 
 本クロニクルから見れば、文教堂問題は、1980年代から形成され始めた郊外消費社会における出店のための不動産プロジェクトの帰結といっていい。チェーン店のための出店バブルは、書店という業態が成長しているうちは露呈しないが、衰退していくと必然的に崩壊していくプロセスをたどる。それは書店のみならず、コンビニやアパレルをも襲っている現実である。
 またレオパレス21問題とも共通している。レオパレス21はサブリースのアパート、マンション3万9000棟、その関連会社は4、5000社に及び、破綻した場合、その影響は多くのオーナーだけにとどまらない。そのために資産売却で特別利益を計上している。
 文教堂の場合も、上場廃止となれば、出版業界に与える影響が大きく、日販を直撃するし、このような先送り処置が選択されたのであろう。
創



4.精文館書店の売上高は194億200万円、前年比1.9%減、当期純利益2億7500万円、同7.8%増の減収減益決算。

 あまり遠くないところに精文館書店があるので、時々出かけているが、数年前からTSUTAYAの屋号となっている。
 それに期中の精文館は静岡のTSUTAYA佐鳴台店864坪を始めとして、出店を続けている。それは精文館もTSUTAYAのFCに組みこまれたことを示しているのだろう。日販、子会社書店、TSUTAYAの複雑な絡み合いの行方はどうなるのであろうか。
 精文館の書籍・雑誌売上は114億円、同1.4%増で、そのシェアは58%となり、DVD、CDなどのセル、レンタルは大きく減少し、出店しなければ、さらなる減収は明らかだ。そのようなメカニズムの中で、出店がなされ、閉店が続いているのである。



5.台風19号により、埼玉県の蔦屋書店東松山店は床上1.6メートルの浸水など、多くの書店で被害が生じたようだ。

 蔦屋書店東松山店の近くに住む出版関係者からの知らせによれば、浸水は深刻で、雑誌、書籍はすべてが水につかり、自然災害ゆえに、出版社は全部を返品入帳するしかない状況になるのではないかということだった。
 博文堂書店千間台店にしても、かなりの出版物にそのような処置をとらざるをえないだろう。それにまだ書店被害の全貌は明らかになっていないけれど、トータルとすれば、大きな返品となり、これも出版社へとはね返っていく。
 それに加えて、台風21号も千葉県や福島県などで河川が氾濫し、市街地や住宅地が冠水、浸水したとされるので、10月の台風による書店被害はさらに拡がり、閉店へと追いやられる書店も出てくるように思われる。



6.出版物貸与権センターは2018年度の貸与兼使用料を契約出版社48社に分配した。
 分配額は16億300万円で、レンタルブック店は1973店。
 17年度の分配額は21億1000万円だったから、5億円以上のマイナスとなった。

 本クロニクル126で、18年全国のCDレンタル店が2043店であることを既述しておいたが、定額聞き放題音楽サービスの広がりもあり、19年はさらに減少しているだろう。
 それはコミックレンタルも同様で、電子コミックの普及により、19年度は20億円を大きく割りこみ、レンタルブック店も減少していくことは確実だ。
 大型複合店の業態を支えてきたのはレンタル部門で、それがCD、DVD、コミックとトリプルの衰退に見舞われている。
 またこれらの水害の後始末はどのような経緯をたどるのであろうか。
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7.大阪屋栗田は楽天ブックスネットワーク株式会社へ社名変更。
 「親会社である楽天家牛木会社とのシナジーをより強固なものにするとともに、出版社等の株主の各社との連携のもと、書店へのサービスネットワークをさらに拡充することを目指す」と声明。
 その一方で、株式会社KRT(旧商号:栗田出版販売株式会社)から、「再生債権の追加弁済(最終弁済)のご連絡」が届いている。これは「50万円超部分」を対象債権額とし、その6.9%を追加弁済するというものである。

 これらのプロセスを経て、大阪屋と栗田の精算は終了し、楽天ブックスネットワーク株式会社へと移行していくのであろう。
 それとパラレルに、旧大阪屋と栗田を取次としていた書店はどのような回路をたどっていくのか。例えば、栗田をメインとしていた戸田書店は8月に2店、続けて9月には青森店350坪を閉店しているし、これから大阪屋栗田時代の書店の選別がさらに本格化するにちがいない。



8.『日経MJ』(10/25)が「シニアの市場 トーハン攻める」との見出しで、「出版不況受け、収益源開拓」として、「高齢者住宅10棟体制へ」をレポートしている。
 それによれば、トーハンはグループ会社のトーハン・コンサルティングを通じ、3月にサ高住「プライムライフ西新井」を開業した。今後の自社所有地の他にも用地を探し、中期的に10施設まで増やす計画で、トーハンの掲げる「事業領域の拡大」に当たる。

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 本クロニクル125などで、トーハンと学研の提携による「サ高住」事業進出にふれ、取次による不動産事業と介護事業の陥穽にふれておいた。
 それは出版社も同様で、『FACTA』(11月号)が「『冠心会』理事負債が10億円の不正流用!」という記事を発信している。これは同誌8月号の医療法人「冠心会」傘下の一成会の「さいたま記念病院」の破産レポートに続くものである。この冠心会の事業パートナーは小学館のグループ会社「オービービー」で、不動産投資して病院建物などを32億円で取得し、経営は冠心会に丸投げしていた。
 ところが冠心会は毎月の診療報酬債権を次々と売り払い、そのファクタリング代金を簿外に移し、一成会は経営不振に陥り、「オービービー」はさらに7億円を注ぎこみ、支援を余儀なくされていた。刑事事件化は必至で、「オービービー」は代理人弁護士を通じて、冠心会前理事夫妻に交渉を始めたが、もはや連絡が取れなくなっているという。
 「病院経営に明るくないオービービーは与しやすい相手」だったとされ、ここにその不動産投資の典型的陥穽が示されていることになる。
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9.能勢仁の『平成出版データブック―「出版年鑑」から読む30年史』(ミネルヴァ書房)が出された。

平成出版データブック―「出版年鑑」から読む30年史 出版の崩壊とアマゾン

 同書は出版ニュース社が刊行していた『出版年鑑』に基づく、平成時代の出版データで、「記録」の他に、「統計・資料」もコンパクトにまとめられ、まさに平成出版史を俯瞰する一冊といえよう。出版関係者は座右に置いてほしいと思う。
 これはと関連してだが、本クロニクル136で、能勢の「大阪屋栗田は情報発信を」という『新文化』(7/25)の投稿にふれておいた。しかしおそらく楽天ブックスネットワークへと移行したことで、出版業界に対する「情報発信」はさらに後退すると考えられる。
 またこちらは『出版の崩壊とアマゾン』(論創社)の高須次郎によれば、『出版ニュース』が休刊してから、一段と「情報発信」が少なくなったという。それは『出版ニュース』休刊だけでなく、肝心な情報、重要な問題への言及は極めて少なくなっており、そこには出版業界の行き詰った閉塞感がこめられていよう。
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10.東京・新宿区の和倉印刷が破産手続き決定。
 1963年創業で、パンフレット、マニュアルを主体とする書籍・雑誌などのオフセット印刷を手がけ、2010年には売上高3億5000万円を計上していたが、近年は売上が減少し、赤字決算を余儀なくなれていた。
 負債は5億8000万円。

11.東京・板橋区の倉田印刷が事業を停止し、破産申請予定。
 1966年設立で、法令関連の書籍や定期刊行物を主力としてきた。
 2013年には売上高8億円を計上していたが、インターネットにおける格安印刷業者の台頭などで、業者間の競合が激化し、売上減少と利益低迷が続いていた。

 出版業界の危機は当然のことながら、印刷業界にも及び、中小の印刷業者の破産となって表出している。その典型がこの2社ということになろう。
 それは製本業界も同様のようで、これらの中小企業、関係会社は相互保証し合っていることもあり、連鎖倒産している。
 これから年末にかけて、中小出版社、書店だけでなく、印刷、製本業界にもこうした倒産が否応なく起きていくだろう。



12.『ニューズウィーク日本版』(10/8)が水谷尚子明治大学准教授による「ウイグル文化が地上から消える日」を掲載している。
 リードは「元大学学長らに近づく死刑執行/出版・報道・学術界壊滅で共産党は何をもくろむ?」
 それによれば、地理学、地質学の専門家の新彊大学学長、ウイグル伝統医学の大家で、新彊医科大学元学長、新彊ウイグル自治区教育長の元庁長らが拘束され、その後の消息が不明で、死刑執行が懸念されている。
 中国共産党はウイグル人社会を担ってきた知識人を強制収容所送りとし、その収監者数は100万人を超すとされる。ウイグル語や文化の消滅を目的とするようで、この2年間で、知識人の社会からの「消失」とともに、ウイグル語の言語空間は消滅しつつある。
 それはウイグル語専門書店の相次ぐ閉鎖、経営者たちの強制収容所への収監、ウイグル語出版社の壊滅、出版社員、編集者、作家、ジャーナリストも同様である。
 「共産党によって押し込められた『ウイグル社会の宝』は今、劣悪な矯正収容所の中で消えようとしている」

 ニューズウィーク日本版 ウイグル人に何が起きているのか
 
 ひとつの民族迫害が起きる時、知識人のみならず、言語、書店、出版が壊滅的状況に追いやられ、かつてのソ連に代わって、あらたに中国が「収容所群島」と化していることを告げていよう。
 さらなる詳細なレポートとして、福島香織『ウイグル人に何が起きているのか』(PHP新書)も出されていることを付記しておこう。



13.アビール・ムカジー『カルカッタの殺人』(田村義道訳、ハヤカワ・ミステリ)を読了。

カルカッタの殺人

 1919年の英国当時下のインド帝国のカルカッタを舞台とするミステリで、著者は1974年生まれのインド系移民2世である。
 主人公はインド帝国警察の英国人警部だが、その存在と登場人物たちは植民地における帝国主義のメカニズムと葛藤を象徴的に浮かび上がらせ、事件もまたその渦中から発生したことを物語っていよう。
 このような帝国主義下の混住ミステリ小説を読むと、船戸与一の「ハードボイルド試論序の序―帝国主義下の小説について」における、次のような一節を想起してしまう。

 「ハードボイルド小説とは帝国主義がその本性を隠蔽しえない状況下で生まれた小説形式である。したがって、その作品は作者が右であれ左であれ、帝国主義のある断面を不可避的に描いてしまう。優れたハードボイルド小説とは帝国主義の断面を完膚なきまでに描いてみせた作品を言うのである。」

 今年ももはや2ヵ月しか残されていないし、多くを読めないだろう。そこでこの『カルカッタの殺人』を海外ミステリのベスト1に挙げておく。



14.下山進『2050年のメディア』(文藝春秋)を恵送された。

2050年のメディア
 これはタイトル、帯文に示されているように、インターネット出現後の読売、日経、ヤフーの三国志的ドラマ、「技術革新とメディア」の20年の物語と見なしていいし、それは本文中の次のような一節に端的に示されていよう。

 「既存の市場が技術革新によって他の市場に移ろうとする時、技術革新によって生まれる市場は最初小規模な市場として始まる。そうなると、大手企業は、わざわざそのゼロの市場に勢力をつぎこみ出て行こうとしないのだ。カニバリズムが恐れられる場合はなおさらだ。」


 この言はジャーナリズムのみならず、出版業界に当てはめることができる。
 だがそれらはともかく、同書からうかがえるのは、2019年まで下山が在籍していた文藝春秋の社内事情で、本クロニクルの立場からすれば、どうしてもそのような裏目読みに傾いてしまうのである。



15.拙著『近代出版史探索』(論創社)が10月25日に刊行された。

近代出版史探索

 今月の論創社HP「本を読む」㊺は「立風書房『現代怪奇小説集』と長田幹彦『死霊』」です。

古本夜話960 柳田国男と『山島民譚集』

 前回ふれておいたように、金田一京助の『北蝦夷古謡遺篇』は「甲寅叢書」、知里幸恵の『アイヌ神謡集』は「爐辺叢書」の一冊として、それぞれ郷土研究社から刊行されたのである。

北蝦夷古謡遺篇 (『北蝦夷古謡遺篇』) f:id:OdaMitsuo:20191001112507j:plain:h115 (『アイヌ神謡集』)

 「甲寅叢書」に関しては、拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究Ⅲ』所収)で既述しておいたが、大正二年に柳田が郷土研究社を設立し、『郷土研究』を創刊するかたわらで、「甲寅叢書」の企画を進めていたのである。そのスポンサーは友人の西園寺八郎と実業家の赤星鉄馬で、彼らが三千円を用意してくれたので、その第一冊目として金田一の著作、第三冊目は自らの『山島民譚集』を出した。いずれも五百部だった。企画には二十点近くが挙げられていたようだが、六冊で中絶してしまった。その理由は不明である。
古本探究3  f:id:OdaMitsuo:20191001103118j:plain:h115 (『山島民譚集』、創元社版)

 これも平凡社の東洋文庫に関敬吾、大藤時彦編『増補 山島民譚集』として、昭和四十四年に刊行されている。同書には「甲寅叢書」版の「河童駒引」と「馬蹄石」に加えて、「大太法師」を始めとする「初稿草案」や「新発見副本原稿」などの十一編、「付録」の一編が「増補」され、柳田民俗学の原初のイメージを浮かび上がらせている。初版「小序」の「横ヤマノ 峯ノタヲリニ/フル里ノ 野辺トホ白ク 行ク方モ 遥々見ユル」、あるいは「永キ代ニ コゝニ 塚アレ/イニシヘノ神 ヨリマシ」「此フミハ ソノ塚ドコロ 我ハソノ 旅ノ山伏」は柳田の新体詩輯『野辺のゆきゝ』の「夕ぐれに眠のさめし時」(『柳田国男全集』32所収、ちくま文庫)を彷彿とさせる。

増補 山島民譚集 柳田国男全集

 それは「うたて此世はをぐらきを/何しにわれはさめつらむ、/いざ今いち度かへらばや、/うつくしかりし夢の世に、」とういものだ。先の「小序」とこの詩は民俗学者以前の松岡国男の顔を表出させ、『石神問答』 『遠野物語』のみならず、『山島民譚集』まで続いていた抒情詩人としての柳田のコアの在り処を伝えていよう。
が想起されたからだと思われる。またアチック・ミューゼアムは昭和十七年に日本常民文化研究所と改称され、澁澤も亡くなっているので、写真などの権利がそちらに引き継がれたことを伝えている。

』『柳田国男全集』15 遠野物語

 このことを自覚してか、昭和十七年の「再版序」で、柳田は次のように始めている。

 山島民譚集を珍本と呼ぶことは、著者に於いても異存がない。それは今から三十年も昔に、たつた五百部印刷して知友動向に頒つたといふ以上に、この文章が又頗る変つて居るからである。斯んな文章は統制には無論通じないのみならず、明治以前にも決して御手本があつたわけでは無い。大げさな名を付けるならば苦悶時代、(中略)一つの過渡期に、何とかして腹一ぱい書いて見たいといふ念願が、ちやうど是に近い色色の形を以て表示せられたので、言はばその数多ひ失敗した試みの一例なのである。

 さらに続けて、「この文体を採用した者は無いのみか、筆者自らも是を限りにして罷めてしまつた」と述べているけれど、付け足しのように「ほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いやうな処」もあると書いている。

 だが鼇頭に置かれた見出しに当たる表記、及び漢字と仮名を混在させた「この文体」は『石神問答』の共著者ともいうべき山中共古の書法であり、それが他ならぬ「爐辺叢書」の共古の『甲斐の落葉』にも採用されていた。それゆえにこの書法は江戸時代の文人や好事家、その系譜を引き継いだ集古会やその会誌『集古』にも見られるもので、『山島民譚集』再版時にはすでに柳田民俗学が確立されつつあっただけに、「再版序」においてはそれらの痕跡を韜晦し、隠蔽しようとしたように思われる。

 例えば、最初に置かれた「河童駒引」を見てみると、柳田は河童伝説をたどるために、まず石川鴻斎の『夜窻鬼談』を挙げ、その奇抜な挿画に「立派ナル若衆ガ奥方ノ前ニ低頭シテ一本ノ手ヲ頂戴スルノ図」があり、「此少年ヨソハ即チ河童ノ姿ヲ変ヘタル者ニシテ、奥方ノ為ニ斯取ラレタル自分ノ片手ヲ返却シテ貰フ処ナリ」と注釈を加えている。

夜窻鬼談

 そしてこの河童が「強勇ナル奥様」に無礼を働き、手を斬られ、泣いてあやまり、手を返してもらうという話、もしくは異伝と覚しきものが九州の『博多細記』や『笈埃随筆』に見えるとし、それらの例も引いている。これらの「三書ノ伝フル所、果シテ何レヲ真トスベキカ可知ラザルモ」、「九州ノ南半ニ於テハ河童ノ別名ヲ水神ト謂ヒ或ハ又『ヒヤウスヘ』ト謂フ」かたちで、柳田の河童探索は続いていくのである。

 このような書法に関して、やはり柳田は「再版序」で、「此本を書いた頃、私は千代田文庫の番人」で、「色々の写本類を、勝手に出し入れ見ることができた」ので、「斯んなにまで沢山の記録を引用」したと書いている。これは明治末期の法制局参事官としての記録課への出向で、内閣文庫での蔵書を読んだことをさしていると思われる。

 しかしこれも韜晦と見なしていいだろうし、柳田民俗学の情報ネットワークはまだ成立しておらず、このような江戸文人や好事家、集古会などに見られた民俗随筆の手法にのっとり、『山島民譚集』を書いたと考えるべきであろう。ちなみに柳田の集古会の会員であり、その名前は会員名簿の『千里相識』にも掲載されているのである。


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